わかってくれる人がいる安心感~子供の自信の源~

仏教的思考

さて、実はこの春は本当にバタバタでした。3月に長女が小学校を卒業し、4月に中学校に入学したからです。しかも、小学校までは全員給食ですが、私の住む自治体では、中学校はお弁当と給食を選ぶことができます。なぜか、中学の給食はおいしくないという根拠のない噂を聞きつけた長女が強くお弁当を希望したので、とりあえずは、お弁当を持たせることにしました。

これまでも、遠足や長期休暇中など必要なときにはお弁当を持たせていましたけれど、毎日毎日持たせなくてはならないのは初めてで、軌道に乗るまで余裕が無く、こちらの更新もすっかりおろそかに・・・。ところが、そんな中、昨日、長女に言われた一言にふっと、書きたくなったのです。

昨夜、寝る前に毎度のこと、お弁当箱が出ていなかったので、

「お弁当箱を出してください。さもなければ、明日はお弁当は無しです!」

と声をかけました。通常であれば、ちょっと怒られてる風の口調に聞こえると思いますけど、鉄壁のような彼女のハートには全く響きません。私は、上記の言葉を徐々に語調を強めながら、少なくとも5回以上は申しました。そこで、我が長女様はやっと思い腰を上げ、

「はい、はい! わかってる-☆」

と悪びれもせず、お弁当箱を出しながら以下のように言うのです。

「今日のお弁当に入ってたオムレツみたいなやつ、めっちゃおいしかった。なんかな、学校でお母さんのお弁当食べると、すごく安心すんねん。なんかな、量もピッタリちょうど良いし、嫌いな物は入ってないし、やっぱ、お母さんは私のこと良くわかってるなって思うねん。だから、お母さんのお弁当好き。」

ちなみに、彼女はほとんど好き嫌いはありませんから、何を入れても基本的には食べます。骨を取るのが面倒という理由で、骨がある魚だけ嫌がるので、魚を入れる時は骨の無いところを入れるだけです。彼女の場合、嫌いな物というのは具体的に言うと、口に合わない味付けを指していますから、青菜の煮物とか、飛竜頭とこんにゃくの炊き合わせみたいな古風な惣菜でも口に合えばバクバク食べるのです。ですから、嫌いな物を入れるようなことには基本的にならないのですが、多分、食べ慣れた味わいの食事を学校でも食べれることに満足しているのでしょう。

とはいえ、私はとても嬉しかったのです。それも、おいしかったということよりも、毎日、昼食の時にお母さんのお弁当を食べると安心すると言ってくれたのが嬉しかったのです。

実は、この「安心」という言葉、仏教用語なんですよね。仏教では「あんじん」と読みます。仏教用語としての「安心(あんじん)」は「仏の教えによって心の安らぎを得て、揺れ動くことのない境地」を指します。また、浄土教では、阿弥陀如来への確固たる信仰心を指して「安心(あんじん)」と言います。阿弥陀様に帰依すれば必ず極楽浄土に生まれ変わることができると信じ切ることで、死への恐怖が軽減し、心が安定するのです。

長女が何気なく言った「お母さんのお弁当を食べると安心する」の一言ですが、この「安心」という言葉の深さを思うと、とんでもなく重要な発言に聞こえてくるわけです。

世のお母様方もよく、子供に「お母さんの顔を見たら安心した。」なんて言われることがあるでしょう。そう言えば、昨年、まだ1年生だった次女の学校帰りの時間帯に急に大きな雷が連続で鳴り響き、大雨が降ってきたことがありました。私は、心配になって傘を持って、様子を見に行ったのです。すると、帰り道に植えてある木の下で、不安そうに空を見上げる次女を発見し、思わず、大きな声で名前を呼びました。私の顔を見るなり、急いで駆け寄ってきた次女の顔が忘れられません。大雨の中、やっと家に着いた時、次女も「すごく、怖くて泣きそうやったけど、お母さんが来てくれたから安心した。」と言っていました。子供にとって、お母さんって本当に大きな存在なんですね。

我が長女は基本的にハチャメチャで、まともに取り合っていると腹が立つので、私は、突然変異で生まれてきた宇宙人だと思って対応するようにしています。そんな、そんな長女でも、お母さんの存在に安心するのです。そして、お弁当が「お母さんは私のことをわかってくれている」ということの象徴として、彼女の心に安定を生んでいるのだなという大切なことを学びました。そう思えば、毎朝作るのは大変だなと思っていたお弁当も案外悪くありません。

そして、この「何があってもわかってくれる人がいる。」という感覚こそ、彼女の自信につながっているのかもしれません。中学校という新しい環境でもどんどんお友達を増やして、クラス委員に立候補し、色々な部活体験に赴き、生き生きとしている姿を見ると、ハチャメチャ長女の本性を知っている私でさえ、魅力的に感じます。もし、彼女の自信に満ちあふれた魅力的な笑顔の裏に私の存在があるのなら、こんなに誇りに思うことはありません。

私のような母親でも、子供にとっては「阿弥陀様」同様、子供達の「安心」の源なのだと誇りを持って、お母さんをやろうと私の自信にもなりました。だからこそ、誰よりも子供のことを理解してあげたいと、やる気も出ました。

どのお家のお母様も同じですよね。本当に日々大変で、めげてしまいそうになることもあるけど、一つでも誇りに思えることがあるのは幸せだなと、しみじみ感じたわけです。

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