私が命をつなぐ意味 ~人に生まれて仏教に出会う~

仏教的思考

さて、長い自粛期間でしたね。まだまだ、事態収束とはいきませんが、とりあえず学校が始まって良かった。学校にも保育園にも行かず、家に3人の子供がずっといるという状態は、仕事をしている以上に自由な時間がございませんでした。おかげで、こちらの更新もすっかりおろそかになってしまいました。しかし、子供たちと長時間を過ごすうちにふっと思い出したことがありますので、忘れないうちに書いておこうと思います。それは、「私が子供を産むことは、大変な善業だ。」という子供を産み、命をつなぐことへの私なりの仏教的持論についてです。

さて、長女を生んでしばらくした頃、まだ赤ちゃんだった長女を抱いていた私の父親が「自分の命がつながった。これで、自分が生きてきた意味があったと思えた。」というようなことをつぶやきました。その時ばかりは、これまで、好き勝手に生きてきて、随分と心配や迷惑をかけてきたけれど、これで、やっと一つ親孝行ができたのかな?と思いました。

仏教というのは、子供を産むということに対して、一見、消極的な哲学にさえ見えることがあると思います。例えば、以前の記事に書いたことがありますが、「一切皆苦/人生は苦である」なんて言われてしまうと、そんなに苦しい世界に子供を送り込むなんて酷いことをしているのではないか?なんて感じてしまう場合もあるかもしれません。また、そもそも、子孫を残したいと思うこと自体、煩悩の一つとも言えます。煩悩を滅することを目的とする仏教においては、子孫を残すことは悪なのかもしれないと思ってしまう人もいるかもしれません。ところが、それは、少し違うのです。

というのも、現存している経典というのは、どうしても、出家者たちがまとめたものが大半ですから、その教えは、出家者向けです。確かに、出家者向けには、結婚して子供を作ることは許されていません。しかし、お釈迦様は在家者に対してももちろん、教えを説かれました。そういう時に、子供を作ることが煩悩だなんてことは言っていません。

実際、お釈迦様自身にも、お子様はいらっしゃいます。お釈迦様のお子様はラーフラさん、漢字では羅睺羅と書いて「ラゴラ」と言います。後に、息子さんもお釈迦様のお弟子さんになり、釈迦十大弟子や十六羅漢に数えられるほど立派な方です。ですが、このお名前の意味は「障害」という意味だとする説が一般的です。お釈迦様がお生まれになったお子様を見て、「自分自身の出家修行の妨げになる障害ができた」というようなことをおっしゃったため、このようなお名前になったという説です。しかし、これにも諸説あり、必ずしも、正解ではないと言われています。しかも、インドでは家の世継ぎが居なければ出家できないのが普通だったということを聞いたことがありますから、出家したいと思っていたお釈迦様にとっては、とっても喜ばしいことだったのではないかな?と思ったりもします。

とにかく、お釈迦様自身も、在家者に対しては、子供を作ることは決して悪いことなどとは説かれないということです。

さて、私の学問的な師匠となります先生が、以前、おっしゃったことが印象的です。先生はある時期、文鳥をとても可愛がって飼っていらっしゃったことがあったそうです。その時、「次は人間に生まれて来いよ」と声をかけていたというのです。これは、どういうことなのか。仏教には六道とか十界といった考え方があります。以前、十界のイメージ図を作ったことがあるので、以下に張り付けます。

十界のイメージ図

六道というのは、迷いの世界で、衆生は基本的にこの六つの世界をぐるぐると回っています。これを輪廻と言い、この輪廻を繰り返しているというのです。そして、輪廻を脱することが仏教の目的です。仏教の最終目標である仏(如来)を頂点とする四聖は悟りの世界で特に天台宗において付け加えられた考え方です。これと先生が文鳥におっしゃった「次は人間に生まれて来いよ」とどういう関係があるのかと申しますと、実は、六道の中でも人界こそが、唯一、仏教の教えに出会うことができるとされているからです。ですから、六道の中でも人に生まれることさえできれば、仏教に出会う可能性があり、仏教に出会えば、仏への道を志すこともできるのですね。これが、残念ながら天界に生まれても不可能なわけです。文鳥は動物ですから、畜生です。ですから、先生の言葉は「次に転生する際には人間界に生まれてきなさい、そうすれば、仏教に出会うことができるからね。」という意味なんです。

日本の浄土宗の開祖として知られる法然上人も法語の中で、似たようなことを、言っておられます。全部あげると長いので、私が感銘を受けた一部分を現代語訳で紹介します。

「まさに今、幾度となく生死を繰り返しつつ永い時を経て、生まれ難いこの人間界に生まれてきた。そして、量り知れないほど長い時間の果てに、ついに遭い難い仏教に出会うことができた。」

つまり、まず、人間に生まれるということが、難しいことなのです。さらに、仏教に出会うことも難しいことなのです。ところが、幸い、人間に生まれて仏教にも出会うことができた。これを法然上人は本当に貴重で素晴らしいことだと言っています。

長々と前置きをいたしましたが、ここからが、「私が子供を産むことは、大変な善業だと考えている。」という持論の本題です。

以前、子供のいない知り合いが、「自分はこの世に自分の子供を残すなんて考えられない。自分の遺伝子を残したいとも思わないし、こんなひどい世の中に子供を送り出すなんておそろしいことはできない。」というようなことを言っていました。私が三女を妊娠した頃でしたから、私にしたら、3人も子供がいる私への悪口かな?とさえ感じました。ちなみに、この人は男性ですから、決して不妊に悩んでいる事情のあるような女性の言葉などではありません。しかし一方で、なるほど、そのように考える人もいるのかなと思いました。確かに、大変な世の中に子供を産み落としたかもしれません。数々の苦難、困難に出会わせてしまうことでしょう。ただ、付け加えますと、上記のように言った人は仏教徒ではありませんでした。だから、大切なことを1つ忘れているのかもしれません。

さて、私の持論の根拠はと言いますと、2つ自信を持って言えることがあるのです。まず1つ目が、「私が生むのは人間の子供である。」ということです。あまりに当たり前のことですが、まず、六道の中で唯一、仏教に出会うことができる人間に生まれることは、これだけで、大変、困難なわけです。すなわち、その人間を生み出すことができるということは、本当にすごいことではないかと思うのです。そして、さらに、もう1つ胸を張って言えることは、「私の産んだ子供は必ず仏教に出会います。」ということです。無論、今後、自分自身の足で歩んでいく時に、違うと思えば仏教を捨てても構わないと思っています。しかし、とりあえず、私のもとに生まれた子供たちは皆、自然に、仏の教えが近くにある生活を送ることになるのです。おそらく、子供を残したくないと言っていた知り合いはこの2つ目には全く気づいていないのです。

六道輪廻の迷いの渦に子供を産み落としたとしても、その中でも特に出会い難い貴重な2つ、「人界に生まれること」と「仏教に出会うこと」を与えられることが決定しているのですから、私は、喜んで子供を産み、育てます。その後、どう生きるかは本人次第ですが、仏を感じるための大きなきっかけを与えることはできるのですから。そして、多分、私の子供たちは、その子供たちにも仏教を紹介するだろうと信じています。

一見、子供を産むことに消極的にさえ感じられる仏教の教えですが、私が自信を持って子供を産めるのは、この世に仏教があるからです。

そんなことで、今は、早くコロナが落ち着いて、父と母の元に子供たちを連れて帰りたいなと日々思っておる次第です。

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