母と言う仕事のあるべきようは

仏教的思考

私は、何もかも中途半端で、良く落ち込みます。一応、博士号を取得いたしましたから、自分は仏教学者かなとは思っていますが、特に学問的に大成しているわけではありません。しかも、仕事も、中々正規職に就くことができず、さまようばかり。もしかしたら、専門職に特化しなければ、何かできるのでしょうが、そういう心持ちには中々なれません。とは言え、妻としては、ほとんど妻らしい態度も取れませんし、妻らしいこともできていないと思います。母としても、思うように、子供と向き合う時間を作れず、子供には怒ってばかりで、実に中途半端としか言いようがありません。一体、私は何なんだろうと常にもやもやしておりました。ところがある出来事をきっかけに少し考え方が変わりました。それは、つい、1年ほど前のことなのですが、三女の出産にかかる入院中の出来事です。

 三女の誕生には夫と、産後、子供たちを見てもらうために来てくれていた母、そして長女と次女が皆で立ち会いました。長女は次女の時にも立ち会っていますし、次女のへその緒を切ったのは長女でしたから慣れたものでしたが、次女も意外と動じず、かわいい声で「お母さん頑張って!」と応援してくれました。無事に生まれると「今回は私がへその緒を切る」と次女がハサミを持って切ろうとしたのですが、中々上手に切れず、途中でハサミが壊れたりして(つなぎ目が外れる構造になっていたようです)結局長女が最後の仕上げをしました。私は、ひどい貧血に襲われており、もうろうとしておりましたが、あとで携帯の動画を見せてもらいました。

その日は割と素直に帰っていったのですが、大変だったのが次の日です。日曜日だったこともあり、母が長女と次女を連れて病院に来てくれました。3400グラム、50㎝と3人の中では一番大柄な赤ちゃんでしたが、小さな妹の誕生を心から喜び、代わる代わる抱っこして、めずらしく穏やかに過ごしました。ところが、夕方、いざ、帰るとなった時、次女が「いやや! 私はお母さんと妹と一緒に寝るの!」と大騒ぎ。主人が無理やり抱っこして連れ去ると両手を伸ばして「おかーさーん」とまるで映画のワンシーンのように、わかりやすく号泣しました。それを見ていた長女がつられて、目に涙をいっぱいにためて、「私、お母さんと妹たちのために頑張るからね!」と言って靴を履きました。思わず、私自身も号泣、結局長女も号泣してしまい、しっちゃかめっちゃかな別れ際でした。あんまり大変だったので、それから、母が「もう連れて行かない」と宣言し、娘たちには退院まで会えませんでした。娘たちが帰ったあと、産後で不安定だったのもあるかもしれませんが、しばらく泣いてしまいました。そして、その時、思い出したのが日本の明恵上人という方が語った「あるべきようは」というお言葉です。

明恵上人は鎌倉時代初期を生きた華厳宗の名僧です。毎日自分の夢の記録をつけたり、インドに行こうとして2度も真剣に旅行計画を立てたり、色々と面白い逸話のある人物です。私の先輩がご専門にされている僧侶ですので、あまり下手なことは言えないのですが、ここには、その時に思ったことを素直に書きたいと思います。「あるべきようは」は、実際は「阿留辺畿夜宇和」と万葉仮名で書かれます。これは、『栂尾明恵上人遺訓』という、明恵上人のお弟子さんが上人のお言葉を集めて書き記した書物の別題のようになっている言葉で、この本の冒頭に以下のようにあることによります。

人は阿留辺機夜宇和と云う七文字を持つ(たもつ)べきなり。                僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。                                      此のあるべき様を背く故に、一切悪きなり。我は後世たすからんと云者に非ず。ただ現世に、先ずあるべきやうにてあらんと云者なり。

現代語に翻訳すれば

人は「あるべきようは」という七文字を心にとどめておかなくてはいけません。        僧侶は僧侶のあるべき姿、俗人は俗人のあるべき姿、さらには帝王は帝王の、家来は家来のあるべき姿ということです。                                  このそれぞれのあるべき姿に背くから全てが悪いのです。私は、後の世で助かりたいなどとは思いません。ただ、この現世において、自分のあるべき姿でありたいと思っています。

と言ったところでしょうか。

実際、この言葉は私のような母親に向けられた言葉ではありません。この後の文章を読めばわかるのですが、戒律も守らず堕落した生活を送る当時の僧侶たちへの痛烈な批判の書です。ところが、その時はまるで今の私におっしゃっているようだと直感的に思ったのです。私は、一体、今まで何を考えていたのであろうかと、「あるべきようは」なんだと。自分は一体何なのかと思い悩む前に、私のあるべき姿は一体何であるのかを問うべきではないのかと。つまり、私は、学者や学芸員である前に3人の娘の母親である。おそらく、私が世間でするような仕事はある程度、誰かに代わってもらうことができるようなことであろう。しかし、母と言う仕事は誰にも代わってもらえない。3人の母は私しかいない。では、私にとっての母としてのあるべき姿とは一体何なのかを問うべきではないのかと。

子供が3人に増え、忙しくなったこともありますが、これを問い始めてから、すっかり研究が止まってしまいました(もちろん、近いうちに再始動する予定です)。そこで、現在の私の“あるべきようは”仕事をする姿を見せることで、働く女性の背中を見せつつ、母として最大限の愛情を注ぐことであると考えるようになりました。これが何よりも大切な私の仕事であり、実際、これさえできていれば、とりあえず良いのではないかとまで思っています(こういった怠け心が入ると、もう、明恵上人の意図から外れてきてしまうのですが)。ですから、一緒にいる時間を思うように作れなくても、怒ってばかりでも、愛していることを伝えることができているかどうかが勝負なのではないかと。そして、実際に愛していれば、どのような状況でもそれが伝わるのではないでしょうか。私は、表面上は怒ってばかりですが、よく主人に「お前の子供への愛情は異常だ」などと言われます。つまり、伝わっているってことだなと確信しております。

余談ですが、愛情の注ぎ方は人それぞれです。以前の記事で長女の段乳に悩んだことを書きましたが、今では、おっぱいはただミルクを飲ませているのではなくて、愛情を飲ませているのだと信じこんでいます。だから、子供が愛情を口から飲むことに満足するまで、与えることにしたのです(対機説法の記事参照)。良いのか悪いのかわかりませんが、私の一種の愛情表現です。我が娘たちには適しているように思います。

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