子育てにおける対機説法的思考の活用方法

仏教的思考

仏教には対機説法という考え方があります。お釈迦様のお弟子さんの育て方です。また、基本理念の中に諸行無常という考え方があります。私は、子育ての悩みのほとんどはこの二つの考え方で解決できると思っています。ですから、今ではわざわざ考えようとしなくても、自然とこの二つの思考方法が作動するようになりました。そこで、まずは、この二つの考え方について、お話ししたいと思います。まずは対機説法から。

さて、我が長女は変わり者で、とにかく問題が山積しております。それは、赤ちゃんの時からです。そんな長女には特に、今だにですが、なぜ、この子だけ違うのだろうと感じることが多々ありました。そんな時の対機説法なのです。

対機説法…相手の精神的な素質に応じて理解しやすいように教えを説くこと。

この機というのは、専門用語では機根と言い、人それぞれに潜在的にそなわっていて仏の教えを受けるときに働く精神的素質のことで、それに応じた説法ということですね。つまり、すべての人に同じように教えを説くのではなく、人を見て、それぞれの人の素質に合った方法で教えを説くというお釈迦様の教育方法のことです。それぞれのお弟子さんを悟りに導くという同じ目的のためでも、相手によって全く違うことをおっしゃったこともあったようです。

そう考えれば、「人はそれぞれ素質に違いがあるのだから、他の子どもと同じことをしても同じようにいかないのは当たり前だろう」と、つまり、「この子にはこの子にあった方法を行えば良いのだな」と気づくわけです。お釈迦様という立派な方がお釈迦様のお弟子様という、はたまた立派な方々に教えを説く時でさえ、それぞれの素質に合わせて違う説き方をしたのです。時には人によって正反対と捉えられるようなのことをおっしゃることがあったと言います。でも、それも全てお弟子様をみんな悟りに導くためだったわけです。ですから、私の子供が人と同じ方法を試して、同じようにできないのは当たり前なのです。

例えば、長女が1歳半の時に断乳をしようとした時なんかは本当に大変でした。今、振り返りますと、あんなことをしないで、好きなだけおっぱいを吸わせてあげれば良かったと思うのですが…。私たち兄弟の乳離れが遅かったことに苦労した私の母が、「できるならそろそろ断乳しといた方が良いかもしれないね」と言ったり、お姑さんに「息子(私の夫)は1歳になったらすぐにおっぱいはやめたし、その妹は10ヶ月で卒乳した」とまるで早く乳離れをするのが良いことのように言われたりしたことで、少しあせってしまったのかもしれません。また、あまりご飯を食べないのはおっぱいをたくさん飲んでいるからだろうと思い、ご飯を食べられるようにしなくてはいけないという思いもありました。ところが、我が長女のおっぱいへの執着は半端なかったのです。おかげで結果、私は3か月半ひどい睡眠不足に悩まされ、とうとう断乳に挫折してしまいました。

1日目、夜おっぱいがないと眠れない長女がこの世の終わりのように何時間も泣き続けたのを、よく覚えています。次の日もその次の日も…。気を紛らわすために、車に乗せ、西大路から北大路、東大路と夜中の京都市中を走りまくった日も何回もありました。やっと寝たと思い駐車場に止め、後部座席のドアを開けたとたんに、パチッと目が明いた時の顔なんか、10年ほど前のことですが、忘れられません。いま、断乳中で大変だと先輩ママや周囲の人たちに漏らすと、「3日我慢すれば、けろっとして何もなかったようになるよ」とか「1週間の辛抱だよ、頑張って」とか、最終的には「どんなに泣いたって3か月も続くことはないよ」なんて言われて、一生のうちの3ヶ月なんて短いものよ!と頑張ったのですが、結局その状態が3か月以上つづきました。私は、その間ろくに眠ることもできず、すっかり疲れ果ててしまいました。3ヶ月と少し経った頃、3ヶ月以上経っても、1日目と全く変化のない長女の様子に絶望して、なんと、とうとうおっぱいを出してしまったのです。3ヶ月我慢させられた娘は、嬉々として目を輝かせ、一目散にむしゃぶりついてきました。今でも忘れられません。そして、久しぶりにすーっと寝てくれたのです。この瞬間、「私はなんと無駄な3ヶ月を過ごしたのだ!!」と腹立たしく、それでも、おっぱいを大切そうにしゃぶる娘がかわいくて、とても不思議な気持ちになり、涙がこぼれました。その時、「私は周囲に惑わされていたのかもしれない」と気づきました。「この子にはこの子に合ったやり方があるはずだ。この子は、今おっぱいを辞めるべきではないのかもしれない。」と。というわけで、断乳に挫折した後は、全く元に戻ってしまい、娘は相変わらずおっぱいにへばりついておりましたが、おっぱいを辞めない長女に頭を悩ますことはなくなりました。ちなみに、長女は2歳1ヶ月を過ぎたころ、急におっぱいへの執着が薄れ、徐々にいらなくなっていきました。大人になってもおっぱいを吸っている人なんかいないはずですから。そう考えると本当に無駄な3ヶ月半でしたが、対機説法の思考方法で、周囲と違うと感じても、気にしないという打開策を見つけることができたという意味では、非常に貴重な3ヶ月半でした。

今では、子供の数も増えました。比べれば、次女や三女はなんと育てやすいこと…。比べればですから、次女にももちろん困ったところはたくさんありますし、三女も好奇心旺盛な食いしん坊で困ることも多々あります。しかし、お姉ちゃんほどではありません。叱るときも、次女にはお姉ちゃんと同じように怒ってはむしろ逆効果です。私は、お姉ちゃんにはかなり強い口調で叱ります。そうしないと驚くほど言うことを聞かないからです。きっと傍から見れば随分きつい叱り方をする親だと思われていると思います。ところが、それでも言うことを聞かないことが多々あるほど、言うことを聞かないのです。しかし、次女にそれをしてはいけません。次女には理論立てて説明するように優しく言い聞かせる方が効果があります。次女に強めの口調で叱るとすっかり落ち込んで、頑なに動かなくなってしまい、むしろ聞く耳を持たなくなるからです。ちなみに、長女に説明方式で言い聞かせますと、「お母さんはそんなに怒っていないみたいだ、まだまだ大丈夫」と思うようで、絶対に言うことを聞きません。同じ環境で同じように育っているはずなのに、ここまで性格が違うかと思います。しかし、ここで、あの対機説法が生きてくるわけですから、日々、仏教的実践の機会を得られることが、とても貴重な楽しい時間であると感じるようにしています。皆様も、「どうしてよその子はすぐに言うことを聞くのに、うちの子はいくら言ってもわからないのかしら」などと頭を悩ませたとき、人と同じようにしても同じ結果にならないのは当たり前と思い直してみてください。もちろん、「そんな悠長なこと言っていられないよ!」と思われる方もたくさんいらっしゃると思います。実際、私も、怒りの真っただ中にいる時はこんなこと考えていません。考える余裕なんかないのが当然です。そこで、しばらくして怒りがおさまってから、ある程度無理やり気持ちをおさめるために上記のような思考に持っていくようにして、次はどう対処してやろうかと楽しく考えるようにしております。でも、ただ、次の手を考えるだけでは楽しめないので、「めったに出会えない、仏教的実践の機会を与えてもらってるのだ。実に有り難いことだ。」と思うことで、楽しもうとしておる次第です。ちなみに、この有り難いという言葉、普段は感謝の言葉として使われますが、字で書くと「有ることが難しい」と書きますね。これも仏教に起源を持つすばらしい言葉です。いつか機会がありましたら、これにも触れたいと思います。

ちなみに、次女の卒乳事情はというと、2歳の誕生日が近づいてきたとき「もうすぐ2歳だね、2歳のお姉さんになったらおっぱいなくても大丈夫かな?」なんて2・3回言ってみたのです。もちろんお姉ちゃんの時のことがあるので、「別に卒乳できなくても良いや」くらいに思っていました。ところが、次女は2歳のハッピーバースデーが終わると同時に、ピタッと辞めてしまいました。あまりにあっさりしていたので、ちょっと拍子抜けしたのを覚えています。そんな次女は、さすがに、今でもキッチリとした性格で、お姉ちゃんが散らかしたものを後ろから片付けます。それを見ながら次女に「あんた、さすがやな。ほんまキッチリして賢いわ‼」などと言っておだてている長女を見ると、「あんたは自分でやりなさいよ‼」と心の中でイライラいたしますが、二人の関係がそれでうまくいっている節もあるので、あまり余計なことは言わないようにしております。次女も「お姉ちゃんは私がいないとダメなんやで」と、時々少しうれしそうに言うのです。さて、そんなお姉ちゃん達にこれでもかと可愛がられている、まだ1歳の三女。この子はどんな女の子に成長していくのかな。今後が楽しみです。

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