個性を伸ばす育て方 

仏教的思考

個性を伸ばす育て方と題しますと、まるで、私がこれを実践できているように見えますが、実際はそういうわけではありません。むしろ、個性を伸ばす育て方を模索している最中と言ったところです。また、ここで言う個性とは、何も特別なことではなくて、それぞれの良いところという意味です。

そして、これが私に合っている子育ての方法であることを気づけたのは、本ブログでも度々登場いたします、長女のおかげです。娘よ、ありがとう。

さて、教育と考えますと、日本の教育は少し特殊かもしれません。世界的にも、全国民のほとんどが九九を暗唱することができるような国はないでしょう。そういう意味では、最低限の知識は身に付けられるようになっています。それは、それで良いと思います。勉強の面では、いわゆる落ちこぼれであろう我が長女にも、丁寧に、根気よく指導してくださる先生方に感謝しかございません。

ただ、意識として、親も含めて、良いところを伸ばすことにも力を注ぎますが、悪いところを改めるという方向に目が向きがちな側面も否めません。特にかつての私は、そうでした。そして、大抵のお子様は、ある程度、それが響き、少し修正できるはずなんです。ところが、長女のきかん気は筋金入りなのでした。特に、長女は悪いところが目立ちます。だからこそ、私の意識が悪いところばかりに向いてしまったのでしょう。態度が悪い、言葉遣いが悪い、成績が悪い…。挙げればキリがありません。漢字のテストなどは50問中1問合ってるかどうかという始末ですから、一時は漢字のテストがあると聞いて、必死に勉強させようとした時もありました。ところが、やる気になるまでに何時間もかかる。何とか、やるところまでこぎつけても全然覚えない。それでも何度もトライして、それで、やっと15個~20個くらい書けるかな?といったところです。もちろん、何もやらないよりは良いわけですから、これはこれで良かったわけですが、とにかく、お互いのストレスがすごいわけです。

本当に、親子で取っ組み合いの喧嘩になるくらい、大変なんです。この頃、長女はダンスのレッスンを増やしたいと何度か打診してきてましたが、学校の宿題もできないのに、ダンスのレッスンを増やすとはどういうつもりですか? むしろ、ダンスなんて辞めてしまいなさい…。的なそういう気持ちが強くて、とうてい容認できませんでした。ところが、これが今となっては間違いだったのかもしれないと感じています。

というのも、今から1年と少し前、長女がロックダンスのチームに入りたいと打診してきました。三女が生まれて3ヶ月と経たない頃でしたから、長女のチーム活動に付き合っている暇はないと思い、赤ちゃんが生まれたばかりだからと思いとどまらせようとしました。ところが、中々、あきらめません。そこで、チームを担当する予定の先生に、どのような活動であるのか直接伺いました。そして、赤ちゃんが生まれたばかりで長女に気を回す余裕がないことも伝えました。先生には丁寧に対応していただいて、長女もあきらめないので、とりあえずやってみなさいと承諾することにしました。

そして、現在も、彼女はダンスチームの活動にいそしみ、週5日ダンスのレッスンに通っています。以前から考えれば、圧倒的に時間がないのです。体も疲れているはずです。ところが、このような生活を送るようになってから、むしろ、宿題を忘れることがぐっと減ったのです。「宿題せなあかんよ」と言ったときに、はーいと素直にやるようになったのです。多分、好きなことに心から打ち込むことで、気持ちがスムーズに運ぶようになったのではないかと思っています。

この時、急に気が付いたのですが、子供って、いや、人間というのは、一枚のハンカチみたいな感じだなと思ったのです。テーブルに置いたハンカチは、どこか一点をつまんで持ち上げますと、つまんだ一点を頂点に全体が上に持ち上がります。少し持ち上げただけですと、まだ、テーブルに付いている所もありますが、それでも、必ず持ち上がってる部分があります。つまり、人間も、一番良いところ、伸ばしやすいところを持ち上げるような方向に持っていくと、結果的に全体が持ち上がるものなのだと思ったのです。

そこで、なんとなく、少し、違うかもしれないのですが、お釈迦様と周利槃特(しゅりはんどく)の物語を思い出しました。

周利槃特(しゅりはんどく)というのは、お釈迦様のお弟子様で、十六羅漢に数えられている方です。この方、実は大変に物覚えが悪く、自分の名前さえも忘れてしまうほどだったそうです。聡明なお兄さんがおられ、できの良くない弟を心配して、お釈迦様のお弟子に誘ったそうですが、お釈迦様の教えをいつまでたっても一句も覚えられない弟を不甲斐なく思い、お弟子さんを辞めて家に帰るよう言いつけたそうです。周利槃特さんは、落ち込んで泣いていました。それを見たお釈迦様が「なぜ泣いているのか?」と聞くと、周利槃特は「私はあまりに愚かで、お釈迦様のおっしゃることも理解できません。兄にもう帰れと言われました。」と涙ながらに話します。するとお釈迦様は「お前は決して愚かではない。なぜなら、お前は既に自分が愚かであると知っているではないか。自分が愚かであることを知らない者こそが、本当の愚か者なのだよ。」と言って、周利槃特に1本のほうき(もしくは一枚の布という説も)を渡しました。そして、「これで、『チリをぬぐい、垢をおとす』と言いながら汚れを落としなさい。」とおっしゃったのです。それ以来、周利槃特はずーと一心にお掃除をし続けました。そして、ある時気づくのです。「本当に汚れているのは、自分の心なのだ。」「本当に落とさなくてはならない垢は、心にある貪瞋痴(とんじんち/むさぼり・いかり・無知)の三毒に代表されるような煩悩の汚れなのだ。」と。そして、立派な阿羅漢になられた。という方です。

これは、私の想像なのですが、お釈迦様は周利槃特さんが、他に何もできなくても、お掃除だけは結構得意であることを知っていたのではないかなと思ったりするのです。だから、他に何もしなくて良い、何も覚えなくて良いから、お掃除だけはしっかりするように教えたのかもしれないな、と思っていました。そしたら、気づけば阿羅漢です。さすが、お釈迦様ですね。

周利槃特さんのように立派になれるかどうかは置いておいても、とにかく、その人のできないことを無理矢理させることに力を注ぐのではなく、できることをもっとできるようにすることに力を注ぐ方が気分も良いし、やりやすいと思うのです。性格面でも、長女には「明るくて、元気。誰とでも仲良くなれる。人気者。」というような良い面はあるのです。また、次女で言えば、ちょっとこだわりが強く、細かい性格で、ぐずることも多いのですが、「とても心が優しい。キッチリしている。そのわりに、ほんわかした雰囲気がかわいい。」というような良い面があります。悪い面に対して、怒ってしまうのは仕方ないですが、加えて、できるだけ、良い面を伸ばして行く方がやりやすいです。性格に関しては、「お母さんはあなたのそういうところが好き」と、はっきり言うことにしています。たとえば、次女が進んでお手伝いをしてくれて、「お母さん、大変そうやから。」とつぶやいた時などは、今だ!と言わんばかりに「ありがとう。お母さんはあなたのそういう優しいところが大好きよ。」と言うわけです。これを繰り返すと、本人も、「そうか、自分は人のことを思いやれるという良いところがあるのだな。」と自分の良いところに気づけます。そうすれば、積極的に得意な方法で人とコミュニケーションが取れるようになるのではないかと思っています。

そして、良い面が伸びてきますと、テーブルに置いたハンカチのように全体が多少なりとも持ち上がってくるような気がするのです。つまむ点は何も、1点だけでなくてはいけないことはなくて、2点、3点と多ければ多いほど、全体も早めに持ち上がりそうです。とは言え、今のところ、長女に関しては、2点くらいかな、しかも多少伸び悩んでおりますが、まあ、それはそれで、ゆっくりでも良いですよね。

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