権実は両方とも真実の姿

仏教的思考

 ドイツ紀行をまとめている最中ですが、いかんせん2年前のことですので、写真の発掘とか記憶の整理とか意外と手こずっております。そこで、ちょっと気になったことがあったので、割り込み的に仏教的思考をアップいたします。それは、次女の学校や学童クラブでの様子と家での様子が少し違うということです。

先日、次女の学童クラブで面談があり、普段の次女の様子や、家で気になったことは無いか、などお話しをさせていただきました。すると、意外な言葉をたくさん聞くことができたのです。

 学童の先生がお話してくれた次女の様子は

「もう、いつも、本当に元気いっぱいで、とっても明るくて、大騒ぎして遊んでくれてます。たくさんお友達も作って楽しそうに過ごしてくれてます。週末になると、時々、『しんどいから寝たい』なんて言うこともあって、いつもがとても元気なので、そういう時はとても心配になります。」

ということなのです。私は正直びっくりしましたが、とても嬉しく思いました。と言いますのも、次女は家では、そういうキャラクターではないからです。どちらかというと、いつもぐずっていると言いますか…。もしくは、自分の世界に入り込んで、ずっと一人遊びをしているか、長女のおもちゃにされているか、長女にキレられて泣いているか、長女と喧嘩して頑張って応戦しても結局負けてまた泣いているか…。割とキッチリした丁寧な性格で、5歳上の長女の世話まで焼いたり…。とにかく、そんな風に元気いっぱいで明るいキャラクターであるイメージはそんなにないのです。

確かに、良く、考えてみれば、結構明るくてひょうきんなところはあるのですが、家ではそういう所が全面に出ていない感じなんです。そういえば、保育園でも何度か、そういうことを言われて、少し、不思議に思ったこともありました。例えば、同じクラスのお母さんに「いつもお弁当箱にいっぱいご飯詰めてくるんですってね。やっぱりいっぱい食べるからあんなに元気なんですね。うちの子も真似していっぱい詰めてって言うんです。」とか、その時も「あれ?うちの次女はそんなタイプだったかな?」と思ったんですよね。

 それから、数日しまして、次女が

「明日は私が日直するの。先生が、私はクラスで一番、声が大きいから、上手に日直してくれそうだねって言ってくれてん。だから、今日は早く寝て、元気に学校行かなけりゃ!」と言っていたのです。それを聞いた主人が

「あいつって、クラスで一番、声が大きいのか?お姉ちゃんがそう言われるのは、まあ、そうだろうと思うけど、あいつも、一番、声が大きいのか?」

と非常に不思議そうにしていたわけです。

 つまりです。我が家にはいつも鬼レベルにパワフルな長女がいるわけです。そして、この長女が、「元気で明るくて」と言われるのは納得なわけです。それに比べますと、次女はどちらかというとおとなしくて優しいタイプだと思っていたんです。ところが、それは長女が最強すぎて、その陰に隠れてしまっているだけで、実際は結構、はしゃぐタイプなのかもしれない。もしくは、我が家では、元気の標準が長女のレベルに合わせてありますから、そこからすると次女はずっと低いのですが、世間一般からすれば、実は次女も上の方なのかな?なんて…。 次女が小学校に上がったことで、そういうことに夫婦で気づいたのです。上記の学童クラブの先生のお言葉に私は、

「そうなんですか。実は、家ではお姉ちゃんのうるささがちょっと、酷すぎまして、おとなしいタイプに感じてたもので、なじめるか不安だったのですが、とても安心しました。ありがとうございます。」

と感謝の気持ちを述べました。以前にアップした記事にも書きましたが長女は学童が合わなくて、本当に苦労したのです。ですから、次女は違う学童に行くことにしたのですが、それでも、なじめるかどうか、ドキドキしていたのです。ちなみに、実はお姉ちゃんは時々、学童に次女を迎えに行くので、先生方も長女のことを知ってはいるのです。

「そうなんですか?とてもしっかりしたお姉ちゃんに見えますけど。」

と言ってもらいましたが、

「ちょっと迎えに来た時くらいでは、わかりませんものね…。」

と答えてしまいました。

 まあ、だいたい、長女のようなタイプは誰とでも、物怖じしないで、おしゃべりしますので、一見、しっかりしているように見えるのです。しかし、もう少し深く付き合いますと、本性に気づいてしまうわけですね…。

 では、どちらか次女の真実の姿なのか。これがこの度の本題です。結論的には、実は、多分どちらも真実の姿なのではないかということを言いたいわけです。そして、これはまるで仏教にしばしば見られる多様性のようではないのか。と思ったのです。

と言いますのも、仏教というのは面白いもので、それぞれの立場によって、真実をどこに求めるのかということが違ってくるのです。

一神教系の宗教的立場などから見れば、ある意味、かなりいい加減に感じることかと思いますが、見方を変えますと、自由な発想が認められていたということになるわけで、釈迦の教えを基礎としながらも様々なタイプの仏教が登場したのです。

ところが、そうなりますと、何が真実なのか良くわからないという現象が起こるわけです。そこで、様々な立場から何が真実であるのかを主張する態度が見られました。これが権実ということです。一番有名なのは三乗か一乗かという権実問題であろうかと思います。

いわゆる一三権実論争とか、三一権実論争とか言われる論争問題になった例です。これは基本的に一乗の立場を真実とする天台宗と三乗の立場を真実とする法相宗の論争ですが、三論宗や華厳宗も一乗を真実とする立場を取っています。

どういうことかと申しますと、「三乗」というのは「三つの乗り物」ということを指します。すなわち、人を3つのタイプに分類する考え方です。3つのタイプというのは声聞、縁覚、菩薩という3タイプです。これに加えて不定性(ふじょうしょう)と言われる3つのうちどのタイプか確定していない人というのもいます。また、どの要素も持ち合わせていない無性というタイプの人もいます。それぞれを格別するので、五性格別なんていう言い方もあります。このうち仏に成れる、すなわち成仏できるのは菩薩のみです。ですから、仏教における究極の境地にたどり着ける可能性があるのは菩薩が確定している人と、不定性で、まだどれか定まっていないけど、今後、菩薩が確定する可能性のある人だけということになります。反対に「一乗」というのは「一つの乗り物」ということを指します。すなわち、全ての衆生は仏になることが可能とする考え方です。ですから、三乗が正しいと思っている人からすると誰でも仏に成れるなんて考え方は無茶苦茶だと感じるし、一乗が正しいと思っている人からすると三乗は随分差別的な考え方だと感じてしまうわけです。ところが、ここでちょっとややこしいのは、どちらも仏が説いた教説であって間違っているわけではないということなのです。三乗と一乗では三乗の方が古い説です。これを受けて、一乗を説く経典である『法華経』には、「これまでの経典に説かれている三乗の説は、一乗の説を導くための方便です。」と説かれるのです。これが、仏教って素敵なところだと思うのですが、間違っている説だと言わないで、方便なんだと言うんです。方便というのは、手段や方法ということですが、ここで言うなれば「真実の教えに導くために仮に立てた考え方」といったところかと思います。ですから、三乗の立場の人も「一乗の考え方は成仏の可能性のある不定性の衆生を導くための方便だ」と言うわけです。

すなわち、一見全く違う説なわけですが、どちらも仏の説いた経典に説かれている説なので、

片方が間違っている、必要のない説なのだ、と言うのではなくて、真実に導くための手段として、違う説が説かれたのですよと捉える。私は、この感覚が大好きです。「ああ、仏教だなー」って思います。(論争上では、かなり激しいののしりあいも見受けられますので、決して穏やかとは言い難いですが…。)

ですから、立場をどちらに置くかと言うことで、どちらも真実になり得るのです。そこで、権実不二(方便と真実は二つの違うもののように見えるが、実には一つであるということ)なんて考え方さえもあるくらいです。ちなみに、この不二という感覚も大好きです。

仏教では、観点や価値観の違いから、それぞれが違う構想をするわけですが、それぞれに存在の意味を認める傾向がある。そして、そこにあるのはいつも一つの真実で、それに裏付けられた様々な考え方が編み出されると言うのが実態なのだろうと考えています。

次女という人物の権実は学校の先生や学童の先生そして親といった様々な立場や価値観に基づく視点から、様々に変化するわけですが、どれも結局一人の次女自身なのであって、彼女の本当の姿なのではないかなと思ったりしたのです。そして、そんな次女の一面を、とても嬉しく感じたわけです。

ちなみに、長女にまつわる「無茶苦茶な子だね」と「しっかりしてるね」といった言葉にしても、どちらも彼女の真実の姿なのであろうと思います。長女は小さいころから、本当に人の言うことを聞きませんが、自分の意見は常に強固に保持しています。ある意味で精神的には自立しているわけです。これを、言うことを聞かない方に着目しますと「無茶苦茶」ですし、精神的自立に着目すれば「しっかりしている」となる。全く、正反対の評価が生まれるのですが、正に不二、長女自身はやはり一人なのです。

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