今すべきことは何かが大切~お釈迦様の毒矢のたとえは実用的~

仏教的思考

先日、と言っても、こういうことは日常茶飯事なのですが、とにかく、散らかしまくる我が長女に対し、私は、いつものように小言を言っておりました。

「どうして、教科書がいつまでもここにあるの?何度言ったら片付けるの!今すぐやりなさい!」

などと言った、いわばたわいもないような小言ですが、この際、長女は基本的にすぐ動こうとすることはありません。しかも、たまたま、妹がそこに置いていたものについて私が、

「なんで、こんなものがここにあるの?」

などと言おうものなら、

「それは、私じゃない!そんなもの、1回も使ってへん!何でも私のせいにせんといて!」

といわゆる、逆ギレという状態に陥ります。我が家の散らかし度を10とすれば、長女5、三女4、次女1といった割合です。三女はまだ2歳ですから、何を言っても仕方ないですが、それよりひどい長女には、もう言うしかありません。このような散らかし割合の現状を自身も認識しているはずなのに、たった1割程度の次女がたまたま置いていたものについて、少しでも指摘しようものなら、鬼の首でも取ったかのように文句の応酬を浴びせかけてくるのです。いったい、どういう気持ちでそのような行動に出ることができるのか。なぜ、少しでも反省してみようかという気にならないのでしょうか。

といった愚痴はさておき、ここで私がつい、

「これをここに置いた人が誰かなんて、今は関係ないんや! 今自分が何をするべきなのかを考えなさい!」

と怒鳴ったのです。今まで威勢良く文句の応酬中であった、あちらさんは、ここで、不服そうにだんまりを決め込みました。結局、片付けはしなかったのですが、口をふさぐことはできました。

そして、この時、ふっと思い出したのです。お釈迦様の残した「毒矢のたとえ」を。これは私の崇拝する空海さんも引用してまして、仏教の前向き教義の代表格として私も何度か元気づけられたのですが、わたしが、「犯人を聞いているのではない、今何をすべきかが重要なんや」というような内容を口走ったのは、多分、「毒矢のたとえ」的感覚が身についているからかもしれないなと思ったのです。

さて、「毒矢のたとえ」というのは、以下のような内容です。すべての内容を挙げますと中々長いので、かいつまんでお話しします。

マールキャプッタという修行者がお釈迦様にとても哲学的な10の疑問をぶつけます。その疑問というのは、たとえば、「この世界は永遠であるのか」とか、「生命と身体は同一であるのか」とか、「修行を完成した如来は死後存在するのか」みたいな疑問です。しかも、彼はこういった疑問にお釈迦様が答えてくれるならこのまま修行を続けるけれども、答えてくれないなら修行はやめようと思っていました。すると、お釈迦様は「もし、私がその疑問に答えない限り、私の所で修行しないと言う人がいるなら、その人は、私がそれについて説く前に死んでしまうであろう。」と言って、毒矢のたとえを話し始めるのです。それは、

例えば、毒矢に射抜かれてしまった人がいたとして、その友人や家族が医者を呼び手当てをしてもらおうとしたとする。ところが、そこで矢で射られた当の本人が、『私を射た者の名前がわからない内は、矢は抜かない』とか『私が射られた弓の種類がわからないうちは矢は抜かない』などと言っていたら、その人は矢を抜く前に死んでしまうのだ。それと同じように、君の持っている疑問は修行には何の役にも立たない。私は、悟りに近づくための修行に役立つことは説くが、役立たないことは説かない。考えても仕方ないような疑問に考えを向けるのではなく、今やるべきことは何かを考えなさい。

と言った内容です。マールキヤプッタさんも、目が覚めたようで、とても喜んでお釈迦様のもとで修行を続けたそうです。

私も、これまで、時に、「私は一生懸命やっているだけなのに、どうして、こうなってしまったのだろう。誰のせいだろう!」なんて、悔しい思いをしたこともありました。しかし、その時、「毒矢のたとえ」を思い出して、「犯人捜しなど、何の利益にもならない。今、私がするべきことは何かを考えよう。」と目が覚めたことが何度かあるのです。

それから、時には、「私は、このままで良いのであろうか、私がこのままの日々を送っていても思い描いていたような将来の自己実現には至らないだろうな。」とか、「もっと、子供のことをちゃんとやりたいのに、全然できない。頑張っても全然できない・・・。」なんて、空虚感を感じることもあります。こんな時にも「毒矢のたとえ」は今、目の前にあるやるべきことをとにかくやることが大切なんだと、私を元気づけ、活力を与えてくれました。

そう言えば、どうして、今まで、ブログに紹介してなかったのか。「毒矢のたとえ」は子供達に今何をすべきかを考えさせるきっかけにもなるのかもしれないと思いました。

仏教は、一見哲学的ですが、実は、実生活に即した実用的な教えが多いのです。毒矢のたとえもその代表格でしょう。「いったい、今するべきことは何なのか」毒矢を抜いて治療をするという、一番先にやらなくてはいけないことから、やるべきだということですよね!

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