立場によって見え方は違う~「一水四見」親と子供の立場の違い~

仏教的思考

最近、何となく手で結ぶ印について大蔵経を検索していた時に、ふっと目に入った言葉がありました。それが「一水四見(いっすいしけん)」という用語です。何となく見たことがある気がして、辞書を調べてみますと、一言で言えば、立場の違いによって同じものでも違って見えるというような意味で、唯識の考え方であることがわかりました。当初、私が、確認したいと思っていたことの本題とは外れていましたが、ちょっと気になったので、唯識のどの文献に書いてあるのかな?なんて、また、色々と大蔵経を検索してみましたら、どうも『摂大乗論釈』(世親造・真諦訳)という書物に書かれているようです。以下がその本文です。

論曰(論に曰く)

餓鬼畜生人 諸天等如應 (餓鬼と畜生と人と諸天等に応ずるが如く)

一境心異故 許彼境界成   (一境にして心異なるが故に、彼の境界を成ずるを許す)

釈曰(釈して曰く)。譬如一江約四衆生分別則成四境(たとえば、一江の四衆生の分別に約して、則ち四境を成すが如し)。餓鬼謂為膿血(餓鬼は膿血を為すと謂い)、魚等畜生謂為住処(魚などの畜生は住処を為すと謂い)、人謂為水(人は水を為すと謂い)、天謂是地(天は是を地という)。隨所分別各成一境(所分別によりて、各おの一境を成す)。(『大正』31・p244・中)

最初の「論に曰く」というのは『摂大乗論』(無著造・真諦訳)という本の一文です。これを解釈した本なので、『摂大乗論釈』というわけですが、ちなみに無著さんは世親さんのお兄さんです。

この『摂大乗論』の偈頌(詩のようなもの)に「同じ世界であっても、餓鬼とか畜生とか人とか天などといった、それぞれの存在の在り方によって、心が異なるので、それぞれの世界を作り出してしまうのですよ。」というようなことが書いてあります。これに対して、「これは、たとえば一つの河(江)について言ってみれば、餓鬼は膿や血が流れているように見えるし、魚にとっては住む場所であるし、人にとっては水だなと思うし、天人にとっては歩くことができる瑠璃の地面に見える。このように、対象が同じものであっても、それぞれの心が作り出す見方によって全く違うものになるという意味ですよ。」と詳しく解説してくれているのです。これを、後々に一言で「一水四見(いっすいしけん)」つまり、「一つの水に四つの見方がある」と言うようになったようです。(餓鬼、畜生、人、天については「私が命をつなぐ意味」という記事にあげました六道の図をご参照ください。)

これについて、まさに我々親子に、日常茶飯事的に起こる現象ではないかと思い、面白くなってしまったのです。我々親子は何も別々の境界に生まれたわけではなく、同じ人として生まれたわけですが、同じ人の世界にも、それぞれの立場によって同じことが違って見えることは良くあるものですよね。実に、的確に世界の道理の一端を説いたものです。

長女が2年生の頃です。私が仕事から帰ってきまして、駅から家まで自転車で向かう途中に大きなマンションがあるのですが、その横を横切った時です。少し先に食品や日用品の宅配サービスのトラックが止まっているなとは思っていたのです。我が家も組合員ですから、見慣れた光景です。また、トラックの周りを良く見かける長女のお友達がグルグルと走り回っているのも見えましたが、特に気に留めてはいませんでした。ところが、そのトラックの横に差し掛かった時、全く姿が見えない長女の声で「お母さん、お帰り!!」と言われたのです。私は驚いて、急ブレーキをかけ、辺りを見回しました。すると、そのトラックの荷台ボックスの中から、娘がひょこっと顔を出したのです。私は、本当にびっくりして、すっかり、勝手によじ登って中に入ったと思ったため、「今すぐに降りなさい!!」と怒鳴りつけました。すると、配達員のお兄さんが私の声を聞いて急いで駆け寄ってきまして「大丈夫です。怒らないでください。」と言うのです。「僕が許可したんです。勝手に登ったんじゃないんです。」とのことでした。我が家にも配達をしてくれていた方で、学校帰りなどにも良く見かけては立ち話しをしたりしていたようで、長女とは顔見知りだったようです。

それでも、配達員の方が、わざわざトラックの荷台に、「どうぞどうぞお登りなさい」などと言うわけはないので、どうせ、長女がどうしても乗せてくれと、しつこくわがままを言って、無理矢理乗り込んだに決まっていると思ったものですから、配達員のお兄さんに「本当にご迷惑をおかけいたしました。すみませんでした。」と謝り倒して、長女を引っ張って帰りました。数人のお友達が周りにいたわけですが、トラックに入っていたのは、うちの長女だけでしたからね。

帰り道で「あのトラックは色々なお家に食品を届けているトラックなんだから、あんたみたいな誰だかわからない小学生が入り込んではいけないんです。」と説教をいたしましたが、例のごとく、非常に不服な様子の長女。怒られたのが気に入らないのだろうと思ったのですが、次の瞬間、長女が「なんで、お母さんはお兄さんに、あんなに謝るの?」と聞いてきたのです。私に、怒られたことより、私がお兄さんに謝り倒していたことが不服だったようでした。私は、「だから、さっきから、言ってるでしょ、色々なお家に食べ物を届けるトラックに関係のない小学生が入ったからです。」ともう一度、言いますと。「私は、関係なくない。あのお兄さんとは仲良しやし、関係あるし。お兄さんが大変そうやったから、お手伝いしてあげてたのに。」「お兄さんが喜ばはると思って、良いことをしたのに、なんで、お母さんはあんなに謝るの? 変や!」と言うのです。

その時は「なぜ、あんたは素直に、『ごめんなさい、もうしません』って言えへんのや!」と、常のごとく、押し問答になりました。当然、わが長女が謝るはずはありませんね。だって本人はとても良いことをしたと思っているのですから。(次女であれば、謝ったでしょうが、そもそも、次女は多分、そんなことはしないので…。)

しかし、これは、正に「一水四見」なのかもしれないと思ったりするのです。

長女によると、その日、マンションの共有スペースで友達と遊んでいますと、いつものトラックを発見し、配達員のお兄さんがいるかもしれないと近寄って行ったそうです。お兄さんは、その日の配達を全て終えて、荷台の中の発泡スチロールやプラスチック製の配達用の箱を整理していたのだそうです。大きいマンションの横ですから、たくさん配達したのかもしれません。道路にも箱が置いてあって、大変そうに見えたのだそう。そこで、「私が手伝ってあげるで‼」と意気揚々と声をかけ、お兄さんの指示に従って箱の片づけを手伝っていたそうです。ちょうど、それが終わって振り向いたら、私が帰ってくるのが見えたとのことでした。

ここには本来、長女がトラックの荷台に乗っているという一つの事実があるのみです。これを長女は「私はお兄さんの手伝いをしている。良いことをした。」と思い、私は、「強引に乗り込んで、配達員さんや他の組合員の方々に迷惑で失礼な行為だ。」と思った。おそらく、お兄さんは長女の「手伝ってやるで‼」の勢いに断りにくくなり、「もう、今日の配達は終わっているし、箱の片づけくらいだったら少しくらい手伝わせても良いかな。」とでも思ったのでしょうか。もしくは、「組合員の娘さんだし、あんまり無碍にはできないかな。」なんて思ったかもしれませんね。そして、それを見ていた娘のお友達は「また、こいつ、面白いこと始めたな。私(もしくは僕)はやらないけどね。」と思って眺めていたといったところでしょう。一つの事実も、それぞれの立場で全く感じ方が違うものだと思います。

そして、ここで、本当に大切なのは、それぞれの立場に偏った辺見(「正しい見方」の記事参照)で判断して終わるのではなく、一体、真実は何であるのかをありのままに観察することなのです。あの時は、恥ずかしさと驚きで謝ったり、怒ったりした私ですが、よく考えてみれば、知っている人が大変そうだったら、見て見ぬふりをせず、手伝ってあげようと思うことは、決して悪いことではありません。また、そういう時に恥ずかしがらずに声を掛けられるのも彼女の良いところと言えば良いところです。お兄さんにしても、私が謝りたおしていた時、むしろ、困ったようなお顔をされていました。もしかしたら、長女に「手伝ってあげる」と言われて、少し嬉しかったとか、そういう感情もあったかもしれませんよね。こればっかりはご本人様に聞いてみないとわかりませんが・・・。もしかしたら、私があんまり謝るので、ちょっと困ってしまったのかもしれません。長女が何か変わったことをした時は、つい、謝ってしまうという、私の悪い癖なのです。

唯識では、「一水四見」と言いますが、同じような意味合いで華厳では「一月三舟(いちがつさんしゅう)」と言うそうです。月は一つですが、止まっている舟からは止まって見え、南に向かう舟からは南に動いているように、北に向かう舟からは北に動いているように見えます。これは、仏の教えを月に例えて、仏の教えは一つであってもそれぞれの受け手によって捉え方が違い、様々な解釈をするということだそうです。どちらにしても、目の前に起こった現象に対して、一つの真実を見極めようとする姿勢こそが重要なのだと思います。

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