子供の起こす問題は如来のメッセージ~どんな騒音も仏の声

仏教的思考

子供がいますと、結構、毎日のように何らかの問題は起こると思います。また、子供が3人もおりますと、大抵、誰かしら、ごちゃごちゃしているものですから、中々ゆっくりとものを考える暇もありません。もしかしたら、このブログを読んでいただいた方の中には、随分、ゆっくり考えているように見えるではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、意外とそうも行かないのが現状です。私の場合は、ゆっくり考えているのではなくて、本ブログに書いているようなことを考えるのが癖になっているだけです。

しかも、我が家の三姉妹は、とにかく、うるさいのです。本当に、ずーとうるさい。例えば、つい、昨晩の我が家を思い浮かべてみますと、長女が見たいテレビを見ていると主人が勝手にチャンネルを変えてしまい、一悶着。それに気を取られておりますと、三女がいつの間にかテレビ台によじ登って液晶画面をバンバンたたく。三女をテレビ台から下ろして、結局、長女の見たい番組を見ることになったものの、番組に興味のない次女が、大音量で歌いだす。テレビの音が聞こえないことにキレた長女が、これまた大声で「うるさい!だまれ!」とどやす…。これに、「お姉ちゃんが怒ったー」と泣き出す次女、反対側にはおっぱいが欲しいと泣き出す三女…とまあ、このような状態が日常なわけです。主人なんぞ時々、「あー!!うるさい!」と気が狂ったようにつぶやくことがあります。確かに、気が狂いそうになるほどうるさいのです。おかげで、私は、騒音の中でもテレビの内容や人の話しをある程度、把握できるという特殊能力を身に着けつつあります。

長女が小学校低学年の時に、ずーと話しかけてくるし、そうでない時は大音量で歌などを歌うし、とにかく、少しでも静かにできないものかと、「ちょっと、一回、とりあえず、10秒で良いから黙ってみて!」とお願いしたところ、「わかった!」と元気よく返事したと思いきや、これまた大声で「いーち、にー、さーん・・・」とカウントし始めました。これは、私の言葉を正しく理解していないのか? いや、そうではなく、わざとなのか?「いや、そうではなくて、それじゃあ黙っていることにならないでしょ。」と忠告しますと「数えないと10秒経ったかどうかわからない。」などと言うわけです…。 とにかく、10秒も静かにできないということが判明いたしましたので、子供がいる時に静かな環境を求めるのは不可能なのだと、それ以来諦めました。

ところで、このような、一見、騒音である我が子の騒ぎ声も、黙って聞いていられることがあります。私が、ある、仏教的思考に陥っている時間です。今回はこの状態について説明したいと思います。

仏教の中の密教という分野における根幹的な思想の中に四曼(しまん)という考え方があります。これは四種曼荼羅の略で、その名の通り、四つの曼荼羅という意味です。これを読んでいただいている方の中には曼荼羅と聞いてピンとくるかたと、そうでない方がおられると思います。曼荼羅というのは、密教では最も重んじられる仏教絵画です。一つの画面の中に、たくさんの仏様が配置されているのが特徴です。大学の授業なんかですと、ここを詳しくやったりするわけですが、今は本筋から大きくはずれてしまうので、詳しく理解をされたい方は「四曼相大論~三大説のうちの相大~」をご覧ください。さて、密教ではこの曼荼羅が、密教で最も重要な如来である大日如来そのものであり、また、大日如来も曼荼羅も我々の生きる宇宙そのものであると考えています。(自分を好きな人にの記事参照)

とにかく、密教で大切にされている絵画を一般的には曼荼羅と言っているわけですが、曼荼羅というのは、単に絵画の名前ではなく、非常に奥深くて重要な世界観に裏付けられています。実際に、美術としての曼荼羅にも四種類があるのですが、これとともに、四つの視点から見た全宇宙を把握するやり方が説明されるのです。ここでは、絵画の話しは置いておきまして、この四つの曼荼羅的世界観と、子供がうるさいという、一見、全く関係なさそうな事柄が非常にリンクするということをお話しいたします。

まず、この四つの曼荼羅的世界観というのは、専門用語で、大曼荼羅、三昧耶(さんまや)曼荼羅、法曼荼羅、羯磨(かつま)曼荼羅と呼ばれる四種類です。ここでは、難しく説明するのはやめて、簡単に一言で言い表したいと思います。まず、四つの曼荼羅的世界観は簡単に言い換えれば以下のようなことです。

大曼荼羅…宇宙全体のありさまのこと。 三昧耶曼荼羅…山とか川とか大地など、この世界において目に見えているもの全て。 法曼荼羅…風の音、水の音など、この世界において響いている音や文字で書き表される事柄全て。                        羯磨曼荼羅…世間で起こる出来事全て。

つまり、総じて言えば「我々の生きている宇宙世界は曼荼羅です!」ということなのですが、これが、ものすごく優秀な考え方だと思っているのです。

風が揺らす木々の音や、雨の滴る水の音、それを法曼荼羅と言うのなら、道路を走る車の音も、子供の騒ぎ声も法曼荼羅ではないでしょうか。我が家の三姉妹はとても騒がしいですが、これらの声を法曼荼羅だと思ったら…。ただただうるさいはずの騒ぎ声ですが、これも如来からのメッセージだ、こいつらは、如来のメッセンジャーだなんて思ってみますと、黙って聞いているのが面白くなったりするのです。

もちろん、私はさほど、精神的に強くはありませんので、いつでもこんな風に考えられるわけではありません。大抵は、私も一緒になって大声で怒鳴っております。

しかし、ふっと時々、上記のように考えてみるだけでも、ただただ、うるさいというストレスが、スっとぼやけることがあるのです。

これは、うるさいということだけではありません。最近でこそ、少なくなりましたが、一時、長女に関して、月に1回は学校からお電話をいただくような時期がありました。もちろん、何か問題があるから、お電話をいただくのです。何度、言い聞かせても、改まることのない長女でしたが、こんな問題も、さて、これはもしや羯磨曼荼羅か? なんて思ってみたりするのです。これも私への如来のメッセージか? すると、ちょっと楽しくなったりするんです。

これで、楽しくなるのは私だけかもしれませんが、それでも、「我々の生きている宇宙世界は曼荼羅です!」「我々の生きている宇宙世界は大日如来です!」という考え方はとても楽しいものです。子供のことだけではなく、目の前にぶつかったとても受け入れにくい状況も、この考え方でなんとか乗り越えることができたことが何度かあります。

時々、保育園や公園で騒ぐ声がうるさいというような騒音問題を抱えているようなことを耳にすることがあります。しかし、保育園や公園から聞こえてくる子供たちの声も如来からのメッセージかもしれません。なんて思ってみたら、腹が立つことも少なくなるかもなしれないのにな…。とか、時々思ったりします。

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