袖振り合うも多生の縁

仏教的思考

長女が3年生だった頃の出来事です。1年生の時から大変仲良しのSちゃんというお友達が我が家に遊びに来ました。お外で遊ぶことが多い二人でしたが、その日は一緒に宿題をやるのだと言うので、それは良いことだとジュースとお菓子を出して、「頑張ってね!」と横で見守っておりました。

宿題と言いますと長女にとっては大体、毎日忘れていく、と言うより、もはややらないものという状態が定番化しており、何度、担任の先生からお電話をいただいてお叱りを受けたことか。私も毎日「宿題はやったの?見せなさい!」と言って確認はしていたのですが、本人がやったと言ってやったノートを見せ、これで全部だと言えば、私もそれ以上は追求しなかったのです。しかし、先生から電話をいただき、「ここ2週間ほど、また、毎日、宿題を忘れてます。」と言われ、よくよく確認すれば、宿題の一部分だけしかやっていないのに、私には、まるで全部やったように嘘をついていたようなこともありました。そこで、さらに追求したり、お母さんと一緒にやろうと誘ったり、何とかやる気を促そうと、私も色々頑張ったのですが、全然、思うように行かないのです。お電話をいただく度に、「私も、色々と頑張ってはいるのですが、あまりしつこく言いますと、大げんかになってしまうし、何とかやる気を出させようと説得しても、やり始めるまでに何時間もかかるし、中々うまくいかなくてすみません。」と謝るしかありません。

そんな中、Sちゃんと一緒に宿題をやるのだと言うのですから、私は、とても嬉しくて、今日は宿題を忘れずに済みそうだと内心、ほっとしていました。

さて、こちらのSちゃんは長女とは全く正反対な性格で、非常にまじめで、どちらかというと物静かで、やさしい子です。まるで別の世界に生きているような2人で、1年生の時から長女に迷惑ばっかりかけられているのに、彼女がどうして、わが長女と仲良くしてくれるのか、わからないくらいでした。それでも、私は、Sちゃんが大好きで、Sちゃんと遊ぶと聞くとなんとなく、安心感をおぼえていました。

その日の2人はリビングのテーブルに向かい合わせで座りました。長女はランドセルを開け、

「さて、今日の宿題は何かな?」

などと言っておりますと、すかさずSちゃんが

「計算ドリルのここと、漢字ドリルのここと。」

と、かいがいしく世話を焼いてくれます。これを当然のように受け入れ、「おう、そうかそうか!」と言わんばかりに、ページを開いて用意してもらったドリルを眺める長女、よほど、「なんという態度だ!」と文句を言ってやりたかったのですが、ここで、口を挟めば逆効果です。だまって、様子を観察しておりました。すると、Sちゃんが長女に少し泣きそうな、小さな声でこう言ったのです。

「こまちゃん(長女の呼び名)、お願いだから明日は先生に怒られないでね!」

きっと、毎日毎日、先生に何らかのことでお叱りを受けているのでしょう。長女のことが大好きなSちゃんは、それを見て、自分が怒られているわけではないのに、日々、心を痛め、悲しい思いをしていたのだと思うのです。そんなSちゃんの優しさを思うと、もう、私は涙がこみ上げできました。ところが、これに対して、我が長女は

「?? 私、怒られてへんで! ??」

と返すのです。これは、決して私が目の前にいるから、怒られているなんてバレたら困るとか、そういう計算で発している言葉ではありません。本当に、Sちゃんの言っている言葉の意味がわからないという反応です。Sちゃんは、Sちゃんにしては、少し大きい声で

「こまちゃん、あれは、怒られてるんやで!」

と言いました。さて、そこで長女は目をまあるくして、

「え? そうなん!」

と返したわけです。つまり、毎日毎日、誰がどう見ても怒られているのに、当の本人は怒られていると認識していなかったようなのです。もう、私は、あきれかえって、もはや何も言う気も起こりません。Sちゃんは

「だから、今日は私が一緒にやれば、宿題、忘れないでしょ。」

と言うのです。我が家で一緒に宿題をやることになったのは、せめて明日は宿題のことでは怒られないようにしてあげようというSちゃんの深い優しさからだったのですね。もう、私は、なんて素敵なお友達だろうと涙を我慢することができないくらい感動して、

「Sちゃん、これからもずっと仲良くしてあげてね。」

と懇願するように言ってしまいました。

しかし、長女のような乱暴ものでも、知らず知らずのうちに、こうやって、素敵な人が近くにいて助けてくれるものだな。そう思うと、世の中というのはうまくできているものです。そんな2人を見ながら、この2人にはどんなご縁があったのだろうと、強く引き合う縁の力を想像していました。

「袖振り合うも多生の縁」

という言葉は聞いたことのある方が多いでしょう。このことわざは仏教思想に支えられた表現です。「袖振り合う」というのは道ですれ違うようなささいな出会いを指します。「多生」というのは、いわゆる輪廻のことです。輪廻とは、我々は想像もできないような太古の昔から何度も何度も生まれて死んで生まれて死んでと繰り返してきたことを言います。ですから、これを生死(しょうじ)とも言います。このように、何度も死に、そして何度も生まれて今存在しているのです。このことを指して「多生」と言うわけです。そして「縁」は、仏教でいうところの因縁を指しています。仏教の根本的な考え方に因縁生起ということがあります。物事はどのような結果であっても、必ず原因が無ければ起こらないという考え方です。これを略して縁起ともいいます。因縁というのはその原因の方を指しています。とりわけ分類するなれば、因は直接的原因、縁は間接的原因といった意味合いです。ですから、「袖振り合うも多生の縁」というのは、「道でたった一度すれ違うようなささいな出会いでも、過去より無数に繰り返してきた輪廻の中でつちかった因縁が作用しているものなのですよ。」という意味ですね。

長女とSちゃんの様子は、まるで偶然に同じ学校の同じクラスになったということだけでは片付けられないような、巡り会いの深い縁を感じさせるようでした。きっと、今生だけでなくて、過去世でも何度も出会ったのかもしれないな。時には親子、時には男女、時には兄弟、そして今は友人同士。

実はSちゃんは、その後、4年生の時にお父さんの転勤で中国の上海に引っ越すことになりました。名残惜しい2人は、引っ越しまでの間にお互いの家でお泊まり会をし、最後にはプレゼントを交換をしてさよならしました。その時のお話では短くても5年は帰ってこないということで、「高校生くらいになってるかもしれないけど、必ずまた会おうな!」と固く約束して別れたのです。ところが、それから、1年と少し経って、Sちゃんのお母さんからメールをいただきました。なんと、急遽、帰国命令があって帰ってきたというのです。お家の場所は変わりましたので、小学校は別々ですが、京都市内ではありますので、再会することができました。あちらも3人兄弟で、Sちゃんには弟さんと妹さんがいます。そこで、その時は私や妹たちを連れ、新居にお邪魔したのですが、なんと、途中で2人はちょっと出かけてくると散歩に出かけ、何時間も帰ってこなかったのです。よほど、再会が嬉しかったのでしょうか。邪魔者なしに、2人でデートしたかったのでしょうかね。まさか、長女の強い引きに帰国が早まったのではあるまいか・・・。なんて思うと、おかしくなりました。

我々は、無数の巡り会いの中で生きています。巡り会いには過去世からの因縁が作用します。なぜ、この子の親になったのだろう。と考えたとき、きっと、過去世でも巡り会ったのだろうと感じることが多いのです。今、愛おしいという気持ちを超えて、ずっと前から出会う予定だったような不思議な感覚。これを縁というならば、科学では証明できない不思議を見事に解説してくれているように思えます。

とは言え、巡り会いを考えた場合、良い縁を引き寄せる場合も、悪い縁を引き寄せる場合もありますね。これについては、また、項を別にして考えてみたいと思います。

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