三女の熱性けいれんに気づかされたこと

仏教的思考

さて、私の子供たちは、実にありがたいことに、基本的には至って健康体な子供たちで、これまで、入院などしたことがなかったのですが、今年の1月に3女が熱性けいれんを起こし、けいれんからの回復が悪かったので、熱が下がるまで入院ということになりました。私は、2008年12月に長女を出産したのですが、それ以来、10年以上、自分の子供が入院するようなことがなかったので、初めての経験でした。この時は、見たことが無い我が子の様子に気が動転して、主人に救急車を呼んでもらいました。子供を救急車で運んでいただいたのも初めてでした。

正直、3人目のしかも、全員女の子ですから、大体のことは経験していると思っていたわけです。たしかに、長女は赤ちゃんの時から育てるのが大変な子供でしたが、それは、性格的な問題でして、身体的な問題ではありませんでした。もしかして、長女や次女に同じような経験があれば、あんなにうろたえなかったかもしれませんが、3人目だから大体のことは経験済みだろうという、無意識のおごりが私の狼狽ぶりを何倍にも膨れ上がらせたことは言うまでもありません。

実は、数週間前にも同じように熱性けいれんを起こしました。その日は保育園でお熱が出たと言われ、迎えに行き、私一人で3女を見ていた時でした。意識も低迷しますし、泡を吹いて顔色が悪くなった瞬間もあり、またもや、心臓がはち切れそうになりましたが、1度経験があり、熱性けいれんで命を落とすことはないと学習をしましたおかげで、言われた通り、平らなところに寝かせ、時間を見てけいれんがどのくらい続いているか観察をしつつ、その時もけいれん後の意識の戻りがいまいちだったので、自分で何とか救急車を呼びました。

この時は、血液検査が痛かったのか、大泣きしたことがきっかけとなったようで、意識も回復し、手の突っ張りなども戻ってその日に帰ることができました。

1度目の時は、

「もう2度とけいれんはしないかもしれないし、今後何回も繰り返すかもしれません。それはわかりませんが、もう2度と無いかもしれないので、今回はけいれん予防の座薬は処方しませんね。」

と言われたのですが、今回の様子を見ていただいて、どうも、3女は熱が上がるとけいれんを起こしやすいタイプだとご判断いただき、「ダイアップ」という座薬をいただきました。さらに、一応、脳波とMRIの検査をしておきましょうか?とアドバイスをいただき、先々週と先週の2回に分けて脳波とMRIの検査をしました。おかげで、3女には、初めての体験を色々とさせてもらっています。

さて、このような中で、2つ気づかされたことがありました。1つは上記にも触れましたように、子育てに対して、私におごりがあったということです。我が家の3姉妹は3人3様、みんな性格もやることも違うものですから、自分では、常に新鮮な気持ちでそれぞれの子供と向きあっているつもりでいました。だから、自分のおごりに積極的には気づいていなかったのです。ところが、どこかで、「3人目だから、大体のことは経験しているし、慣れている」という思いが、どうもあったようでした。これが、けいれんを見たときに、自分の頭の中の検索履歴にない状況だったことで、ひどく動転し狼狽する結果を生んだのです。

今考えると、とても恥ずかしいのですが、子供の名前を大声で叫び、救急車が遅いと大騒ぎをしてしまいました。実に反省しなくてはいけません。

一番、反省しなくてはいけないと思うのは、自分のおごりに気づいていなかったことです。これぞ阿頼耶識(あらやしき)だと実体験で突きつけられたような気持ちでした。どういうことかと言いますと、仏教では心を識と呼び、心の分析が行われます。中でも唯識で唱えられる八識が有名だと思います。他にも天台では九識、真言では十識なんていう風に増えたりしますが、詳細はそのうち余裕がありましたら予備知識のカテゴリーに書かせていただくとして、とりあえず、ここでは八識に基づいて話してみます。

八識というのはこころを、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識(まなしき)・阿頼耶識の8つに分析する考え方です。このうち、眼識から身識までが、目で見たり、耳で聞いたり、匂いを感じたり、味わったり、手足の感触があったりといういわゆる感覚に相当し、これを前五識と言います。そして、六識目の意識がいわゆる心に相当し、前五識と連動して我々は色々なことを認識しています。ここまでが日常生活において自分で認識できる範囲の識です。すなわち、それ以外は俗に言う無意識の世界ということになります。第七末那識というのは、第八阿頼耶識を見て、「これがわたしだ。」と自我に執着する識です。末那識は寝ても覚めてもずっと「わたし、わたし」と自分自身に執拗に執着し続ける心なのだと言います。ですから、私たちは知らず知らずのうちに、いつも自分自身を基準に行動しているのですね。そして、最も重要なのが阿頼耶識です。阿頼耶識は八識の中では最も深層部分の根源的な心です。そしてそこには、私たちが生まれる以前からずっと行ってきた行為の影響が植物の種のようにしまわれています。この種は普段、しまわれていることはわかりませんが、何かの縁を得ることで、植物の種が芽吹くようになんらかの具体的な結果を芽吹かせるのです。ですから、私は知らず知らずのうちに、3人目だから大体のことは経験済みだろうというおごりの種を阿頼耶識にしまっていたのでしょう。これが、三女のけいれんに遭遇して、それが縁となり、経験のないことにひどく動転するという結果を生み出してしまったわけです。しかし、ここで、良かったのは、私が阿頼耶識を知っていたことで、私にはそういうおごりがあったのだということに気づけたことです。

もう1つが、私の中の娘たちの存在の大きさです。けいれんの前後は3女の様子が何ともはかなく感じてしまう。今、こうして腕の中で眠っていても、いまいちつかみきれないような、命を捨ててでも守ってあげたいのに、自分には何もできない無力さが襲いかかってくるのです。ところが、よく考えれば、何かできると思っていること自体、おごりなのでしょう。上記に書いた阿頼耶識の件とも相まって、これは、いわゆる増上慢です。自分が「隠れ子育て増上慢」であったことに、改めて気づかされました。(増上慢の詳細は「あいつ調子に乗ってんねん」をごらんください。)おかげで、自省の日々を送っております。

とはいえ、11月末に学会発表を入れてしまった・・・。はたして、私は大丈夫なのでしょうか。以前、お姑さんに「あんたがあんまり頑張ると子供が迷惑する。」というようなことを言われたことがあります。その時は、少し、カチンときたのですが、振り返って見れば、ある意味、真をついているような気もいたします。とりあえず、色々なことを何とか乗り切りたい。頑張ると迷惑なのでしょうが、とりあえず今は、頑張ります・・・。

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