宗教の必要性~宗教はつり革と言う恩師の言葉~

仏教の役立て方

今回は宗教教育の重要性をテーマにしたいと思います。先日、なにげなく恩師の執筆された本を読んでいました。そこに、「宗教はつり革に似ている」ということが書かれていて、先生が良くその話しをしていたことを思い出しました。このお話しをかいつまんで抜粋いたします。

宗教は電車のつり革に似ているといわれる。電車が一定の速度で一定の方向に走行している時はつり革は必要ない。しかし、電車が急ブレーキをかけたり急カーブを切った時には、思わずつり革をつかむ。これと同じように、人生がうまくいっている時は宗教は必要ないが、人生に大きな障害が立ちはだかった時に、思わず宗教に救いを求めようとする。しかし、強度のあるつり革でなければ人を支えられないように、宗教も真実の教えでなければ自分を支え尽くすことができない。

といった内容です。聞くたびに、確かにそうかもしれない。素敵な考え方だなと思うと同時に、私にとって宗教は何だろうか? 本当につり革なのかしら?と考えたりもしました。先生は常々、「我々学生が強度のあるつり革をつかめるように、正しい宗教を身近に用意してあげたいのだ」と言っておられました。

さて、なぜ、宗教が必要なのか。時々、そのような疑問の声を聞くことがあります。いつからでしょうか、不思議なことに日本人は宗教から離れている状態を良しとする人が増えてきたようです。NHKの「日本人の意識調査」では1998年の調査時に信仰への意識低下がいちじるしかったようで、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件などの影響で、宗教への意識が危険性に傾いた影響であろうと推測されています。確かに、何となく宗教を敬遠し、無宗教であることが良く、他人に信仰の話しをすることをタブー視するような傾向さえ見受けられます。実際、若い世代で宗教に興味のある人は少ないと感じますし、「宗教に頼る人は心の弱い人なのではないか」などと、私にとっては全く本末転倒的な思考を吐露する人もいました。

そもそも宗教と言うのは、他の動物には見られなかった、特有の「死」へのこだわりから始まっていると言われています。原人や旧人と言われるような我々の祖先たちも、遺体に花をたむけたり、埋葬したり、副葬品をつけたりしていたと考えられるようです。このような行為こそが、宗教のはじまりなのです。どんなに、宗教を否定する人でも、身近な人の死には関心のある人が多いはずです。

では、なぜ、宗教がそんな扱いになってしまうのか。以下は完全に自論ですから、笑って読んでください。

世界的に見てもおそらく日本のような国は珍しいと思います。人類は宗教と供に生存してきたのです。世界の人に、「あなたの宗教はどのようなものですか?」と聞かれて、「私は無宗教です。」などと答えれば、これはもう変人扱いです。笑われるか、不思議がられるか、気持ち悪がられるか。でも、日本では特に不思議に感じる人はあまりいないかもしれないですね。これには、様々な事情があるはずです。日本人特有の宗教観による部分も大きいかもしれません。政治的な影響もあると思います。そもそも宗教という呼び名が悪いのかもしれません(「仏様への信頼」の記事参照)。

日本人特有の宗教観についてですが、不思議な現象があります。文化庁の『宗教年鑑』というものがありますが、ここに各宗派の信者数が示されています。神道系と仏教系が多数を占めており、キリスト教系やその他もあります。ところが、これらを全部足すと日本人の人口の1.5倍ほどになるというのです。ちょっと変ですよね。でもこれこそが、日本人の宗教観を象徴していると思うのです。つまり、多くの人は、どこかのお寺の檀家さんでありながら、どこかの神社の氏子さんでもあるという二重宗教状態ということです。ですから、信者としてカウントした時にダブってしまうのです。元来、日本人は、山や川や木や石や、この世界にある全てのものに神が宿ると考えていました。6世紀に本格的に導入された仏教も、こういった宗教観と上手にマッチしていきました。そのようなことから、日本人は特定の何かを一つだけ信仰するというのが苦手なのでしょう。しかし、これは無宗教とは言いません。むしろ、宗教だらけです。

政治的と言いますと、2回あると思います。一度は明治維新以降の国家神道体制です。もちろん、江戸時代の檀家制度などから徐々に色々とあります。しかし、やはり、神仏分離、廃仏毀釈といった政策は、日本人の精神性を決定的に傷つけた最大の悪政だと、個人的には思っています。この時、お寺や神社は神道か仏教かはっきりさせなくてはいけないとか、どの宗派の所属なのか決めなくてはいけないとか。それまで曖昧で良かった部分が、そのままではいられなくなってしまいました。曖昧なのが心地よい日本人は、この時、かなり戸惑ったと思います。次に、戦後です。戦後は政教分離がなされました。その発端は GHQが日本国政府に対して神道指令として、神道を国家から分離するように命じたことだったと認識しています。神道に少しでも関わりのある教育や行事は厳禁となり、教育も大きく変革させられました。教育からは日本固有の伝統の排除を求められました。もちろん、日本固有の伝統は日本人の信仰と大きく関わっていたはずです。このような状況下において、日本人は政教分離をはき違えてしまったのではないかな?と思うのです。本来、政教分離は信仰の自由を保障するためにある考え方で、特定の宗教と政治が結びつくことで、信仰の自由が確保できない状況が生まれないようにするためのものです。ところが、GHQ支配下で無理矢理に行われた様々な政策によって、伝統的精神性が否定されたことで、宗教的なものを信じることは良くないことなのではないかと思ってしまった。そんな気もします。

それでも、神社やお寺では手を合わせる日本人は素敵です。やっぱり日本人は本来、超信心深いのです。お寺の檀家で神社の氏子、お寺でお葬式や法事をし、神社のお祭り行列に参加。その上、地域のお地蔵さんのお掃除、京都では夏に地蔵盆もあります。自然とやってるではないですか宗教活動を。外国の方と宗教について談話したことが多いわけではありませんが、以前、すごく不思議がっている方がいました。アメリカ人の方だったと思います。「あんなに宗教活動ばかりしているのに、『私は無宗教です。』なんて言うんだ。どういうことですか?」って。これ、説明するのは難しいですよね。私の場合は、はっきりと「私は仏教徒です。」って答えますから、あんまり突っ込まれないのですが。でも、日本の土着の神々と仏教の関係を説明すると、すごく興味深そうに聞く方が多いです。「無宗教です。」ではなくて、「日本人は宗教だらけなんです。」と説明する方が興味深く、わかりやすいみたいです。

そして、私は、こんな状況だからこそ、今、宗教教育が重要なのだと考えます。伝統を排除するのでなく、伝統を民族的個性と認め、そこに立脚した人格を育てることを目指すべきです。

我が恩師の「宗教つり革論」から、大分かけ離れてきましたが、すなわち、今、行うべき宗教教育というのは、まずは、宗教に対するタブー視、危険視が誤りであることを認識できるように方向修正することです。それこそ、学歴のある人達がオウム真理教などに入信し、犯罪に手を染めてしまったということがありました。これは、宗教への危険視が足りなかったからではありません。正しい宗教教育が行き届いていなかったからです。そして、正しい宗教教育を行うためには、宗教へのタブー視は禁物です。タブー視していては、ざっくばらんに宗教に関する意見交換をすることなどできないからです。もし、信仰に関する話題に対してざっくばらんに話しあえる環境があれば、間違った方向に向かいそうになっても、早い段階で、他の人に修正してもらえる可能性があります。

ところが、ある程度、頭が凝り固まってきますと、これが一番難しいと思います。我が恩師は偉大です。大学生に「宗教つり革論」を語り、宗教を学ぶことの大切さを説いてくれました。それでも、大学生くらいになりますと、ある程度、思考方法が出来上がっている人も結構いるなと思うのです。いわゆる、「身についている」という状態に持っていくには、本来的にはもっと早い方が良いかもなと個人的には思っています。正直、私自身、今の宗教観に近い状態になってきたのは、20代も半ばを過ぎたころだったと思います。しかし、もし、もっと早く仏教に出会っていれば、10代後半から20歳前後の酷い憂鬱はもう少し上手に解決できていたかもしれないと思ったりもします。もちろん、大学生になってからでも、出会わないより出会った方がずっと良いです。それでも、幼いころからの情操教育として宗教が機能する方が理想的です。

実際、かつての日本ではそれが出来ていたはずだと思います。正しい宗教のある雰囲気の中で成長することが、正しい宗教的情操教育の在り方ではないでしょうか。自然と仏を敬い、神様を拝む。その時、心地よい空気が流れる。日本人にとって最も重要なのは、本来的には日本人が宗教だらけであるということに気づくことなのです。日本の伝統的文化が見直される機会が増えた今なら、徐々に方向修正することは可能なのではないでしょうか。

ちなみに、大学生にとってはつり革で良いのです。つり革があればつかめる年齢です。しかし、赤ちゃんはつり革をつかむことができません。そこで、私は、幼い我が子を仏教の舟に乗せているイメージで育てています。幼いころから正しい宗教に支えられる経験を用意することで、すぐに正しい宗教をつかめる土壌を作ってあげたい。それが、逆境をはねのけるための強い後押しとなると信じています。

ですから、「宗教に頼る人は心の弱い人」などという考え方は全くの誤りです。むしろ、「正しい宗教を身に付け、支えられている人こそが、心の強い人」なのです。正しい宗教が何か、わからない方は是非、仏教に触れてみてください。仏教にも色々ありますが、きっと、役に立つ時が来ると思います。

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