仏様への信頼~自灯明、法灯明の活用~

仏教の役立て方

私は、現代の風潮をいたずらに否定するつもりはありません。それでも一つだけ残念に思うことがあります。よく、うちは無宗教ですと言う方が多いですが、では、なぜ、初詣でに神社にお参りするのですか? 亡くなった時はお坊さんにお経をあげてもらうのではないですか? と不思議に思います。それは無宗教とは言いません。

おそらく、現代の日本にも、古より染みついた日本人の感覚というのはうっすらでも残っているのだと思います。だから、無宗教と言いつつも神社やお寺にお参りするのです。その感覚が消えてしまわないうちに、できればもう少し、この感覚の重要性を認識することは大切だと思います。あるいは、宗教という言葉があまり適していないのかもしれません。

そもそも、現在、使用されている宗教という用語は、幕末頃に英語の訳語が必要となった際、英語のReligionの訳語として、あてられた言葉です。これ以降、現在で言うところの宗教全般を指す用語として、日本語に採用されました。つまり、明治時代以降に広まった言葉なのです。Religionの訳語でしたから、当初はどちらかというとキリスト教をイメージすることの多い用語だったと説明されることもあります。しかし、そもそも、宗教とは、仏教では「宗の教え」つまり、大きな仏教というカテゴリーの中に色々と派生した宗派の教えという意味だったはずであって、江戸時代までの用語の意味とは違ってきているように考えられます。少し、難しい話しになりましたが、とにかく、日本人の持つ独特の宗教観というのは、いわゆる、一般的に宗教と聞いたときにイメージされるような概念とは少しちがうのではないかと思うのです。だから、当の本人が無宗教と認識してしまうのでしょう。本来、日本人は見えない何かを敬う力に長けているはずなのです。この感覚が大切だという話しをしたいと思います。

私は、仏教徒ですので、ここでは基本、仏教に基づいて書きますが、どの宗教でも同じようなことが当てはまると思います。

まず、大切なのは、自分の目には見えないものの存在感を感じられるかどうかです。科学が発展するのは素晴らしいことですが、科学的に証明できない目に見えないものの存在をおざなりにすることは、心の崩壊の始まりです。目に見えないし、自分にはどうにもできない、絶対的に正しい存在、そういうものに支えられた心は強くしなやかです。反対に、そういった支えのない心は弱く折れやすいと思います。

だから、我が家では生まれた時から仏様という名の、見えないけど、絶対に正しい存在を心に埋め込んでいく努力をしています(必ずしも見えないわけではないのですが)。主人が僧侶ですので、割とこの作戦は行い易いです。一番大きな娘でも11歳ですから、最終的にこれが成功するかどうかは、まだまだわかりません。しかし、現時点ではある程度浸透しているように思われます。彼女はとにかく信心深い(私よりはるかにです)。京都には町中に小さな祠がたくさんありますが、その前を通るたびに、立ち止まって拝みます。神社やお寺でのお賽銭も自分のお小遣いから気前よく出します。何より、神仏を心から尊重し、自分は仏様や神様の子であると心の奥で信じています。そして、この努力によって、一定の問題はとても簡単に解決することができるのです。

たとえば、私は、特に長女には怒ってばかりです。かなり厳しい口調で叱ります。そうでないと言うことを聞かないからです(対機説法の記事参照)。でも時に、「なんてひどいことを言ってしまったんだろう、ちょっと言い過ぎたかな」などと反省することもあります。当の本人にはあまり響いていないように見えますので、あまり気にする必要はないのかもしれませんが、私の心が傷つくのです。もしかしたら、本当は長女も傷ついているかもしれません。そういう時、私は仏様に頼ってしまいます。仏様の話しをすると、不思議と素直に耳をかたむけるのです。今のところ、しっかり、仏教徒に育っています。

だから、こういう時、私は「お母さんは人間だから、時には間違ったことも言うかもしれない。でも仏様は間違わない。納得できない時は自分の心の中で仏様に聞いてみなさい。」と子供に言います。そして、これは、ある種、子供自身の判断力を育てることにもなると思います。

大学で講義をしていても感じることですが、自分では何も決められない若者が年々増えているように思います。心の中で仏様に相談するということは、自分で何が正しいのかをじっくり考える行為でもあります。ですから、考える力、判断する力というのは、見えないものの存在に心を支えてもらうことで、割とスムーズに身につけることができるように思うのです。現代には、この感覚が不足しています。だから、深く考えることができない、自分で決めることができない、もしくは、短絡的な行動を起こすということに繋がっていってしまうという側面もあるのではないでしょうか。

ただし、我が長女に関しては、人に相談せずに何でも勝手に決めてしまい過ぎるので、これも問題で、大変困らされています。しかし、これは仏様のせいではなく、彼女のパーソナリティーのせいです。

よく、思い返してみれば、お釈迦様はお亡くなりになる直前に、自灯明、法灯明ということを説かれたと言います。お亡くなりなる少し前に、お釈迦様はひどい病に倒れました。お釈迦様がいなくなってしまったら何を頼りにしたらよいだろうと動揺する弟子に対し、教えはすでに全て説きつくしたから心配しないようになどと言った後、次のようなことをおっしゃったのです。

「自分自身を灯明とし、自分自身をたよりとして、他の人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他の物をよりどころとしないように生きなさい」

法とはお釈迦様の教えのことです。お釈迦様は、もし、自分がいなくなったら、他の誰かに頼るのではなく、自分自身の中にあるお釈迦様の教えをよりどころとしなさい、とお弟子さんに伝えたのですね。

ちなみに、これは、「自分の心のままに自分の好きに生きればよい」という意味ではありません。自分自身で、体や心や感覚やお釈迦様の説いた教えの内容をじっくりと観察し、真実とは何かを導き出しなさいというような意味合いのお言葉です。

こう考えてみますと、心の中で仏様に聞くということこそ、実生活に即した実践的な自灯明、法灯明そのものではないですか。そして、子供の時からできることです。心の中で「仏様ならどう思いますか?」と聞いた時、心の中でも仏様は「人を殺しなさい!」なんて絶対に言わないのです。

だから、仏教は役に立つのです。仏様にこのような言い方をするのは失礼ですが、仏教だって仏様だって 子育てに利用できるものは利用しちゃえば良いのではないでしょうか。使えるものは使って、ポキッと折れてしまわない、強くしなやかな心を育てたい! もちろん、お母さん自身も強くなれるはずです。

ちなみに、これはお寺の保育園に通った影響なのですが、我が子は「どれにしようかな神様の言う通り」とは言いません。「どれにしようかな御仏様(みほとけさま)のおっしゃる通り」と言います…。

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