煩悩のありか~かわいい煩悩即菩提~

仏教的思考

3月の終わり、次女が保育園の卒園式に臨みました。5年半ほどお世話になった保育園とのお別れの式典です。一応、新型コロナの影響で参列者の制限を呼びかけられていましたが、姉妹のイベントには顔を出さずにいられない長女と置いていくわけにはいかない三女も参加しました。卒園証書をいただくために、名前を呼ばれた時のお返事がとても良くて、思わず眼がしらが熱くなりました。担任の先生にも「本当にお返事がピカ一でしたね」とほめていただきました。ずっと、「まだまだ、上手に歌えないんだよ。練習しなけりゃ!」などと言って、家で練習していたお歌は、本当に上手に歌えていて、どこが上手に歌えなかったんだろうかと、とても感動しました。この辺りでは、私もほとんど号泣しておりました。感染症の影響で縮小になったとは言え、とても感動的な卒園式を作ってくださった保育園には本当に感謝したいと思います。

さて、そんな感動的な卒園式でしたが、さすが、京都のお寺の保育園と言いますか、女の子は10人中8人が着物でした。我が家は、着物と袴は小学校の卒業式と決めておりまして、保育園の卒園式は洋服です。帰ってきて、本人は「私もお着物が良かったかも…。」と言っておりました。私は、「あなたの服装が一番、卒園式にふさわしくてかわいかった。」と伝えましたが、なんとなく、納得いかない様子。そういえば、以前にも、同じようなことを聞いた気がします。多分、長女もそう言ったのです。しかし、我が家の方針ですので、変更しなかったわけです。黒のワンピースをチョイスしておりましたので、地味に感じたのかもしれませんが、私の目には一番清楚で、素敵に見えました。

次女も家で黒のドレスを着て、頭にリボンをくくった時はとても満足そうで嬉しそうだったのです。でも、もっと華やかなお友達を見て、うらやましくなったのですね。

ちなみに、私も着物で参加しました。私は自分で着物を着ますので、着物での式典出席にはあまり抵抗がありません。反対に、正式な場に身に着けるような洋服を持っておらず、仕事に出かけるようなスーツを着ていくのでは少しおかしいような場所には着物で出かけるようにしています。さて、長女が家に帰って「今日は、お母さん達の中で、お母さんが一番かわいかった」と嬉しそうに言いました。褒めてもらったのでしょうか?私は「そんなことはあるまい」と答えましたが、娘がそう思ってくれたのはもちろん、少し嬉しかったです。多分なのですが、私は自分が主役ではないということで、訪問着ではなく、色無地の紋付を着ておりまして。他のお母さま方は、皆様、華やかな訪問着で素敵でした。ところが、それが、むしろ、何となく、こなれているように見えたことで、娘の目にそう写ったのではないかと思うのですが・・・。もちろん、自分のお母さんという欲目もありますしね。

そして、ふっと煩悩ということを思い出しました。次女が感じた「綺麗なお着物がうらやましいと思う気持ち」も長女が感じた「私のお母さんが一番かわいい」という気持ちも両方、いわゆる煩悩で説明される感情だからです。煩悩というのは、心身を苦しめ、わずらわす精神的作用のことを言います。それは、自分で起こそうと思わなくてもひとりでに心に起こることもたくさんあります。我々の生活は煩悩にあふれているのです。その代表格が貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒と呼ばれる、最も根本的な3つの煩悩です。それぞれを一言で言うなれば、貪はむさぼりを、瞋は怒りを、痴はおろかさを指しています。

まず、人をうらやましいと思うのは自己否定の感情の働きで、これは「瞋」に分類されます。瞋の感情の代表的なものは怒りですが、対象を否定するような心の動きを指しますので、自己に対する否定の気持ちも同じです。人への怒りだけでなくて、自分への怒りも煩悩のうちです。

また、私のお母さんはかわいいという思いは「慢」という煩悩の中の一つです。「慢」というのは人と比べて、自分を必要以上に高く評価することを言います。「慢」を細かく分析するといくつかの種類に分けられるのですが、「私のお母さんが一番かわいかった」というのはそのうちの「過慢」に相当するかと思います。過慢というのは、自分と同等の相手と比較して、自分の方が優れていると考えることです。お着物を着ていらしたお母さま方は、どのお母さまも同じくらい素敵なお着物姿だったのです。しかし、長女は「私のお母さんが最もかわいい」と思ったわけですから、これは過慢以外の何物でもないですね。

とは言いますが、両方とも、子供らしい自然な心の動きだろうなと思うのです。それで、こんなことを思う私も、一風変わったお母さんであろうとは思うのですが、改めて、煩悩を滅することの難しさを思い知らされたような気がしたのです。やっぱり、煩悩にあふれているなと再確認してしまったのです。もちろん自分自身も、本当に全然だめだなと、振り返ってそう思いました。しかし、そんな煩悩による心の動きも子供のかわいらしさを演出するには必須なんだよなとも思ったりするのです。1歳になったばかりの三女が大好きなニンジンを見て「あー!あー!」と指を指し、もっとちょうだい、もっとちょうだいと言って、口に入れると、なんとも嬉しそうにニコニコ笑うのも煩悩あってこそのかわいさです。

それで、もう一つ面白い考え方を思い出しました。「煩悩即菩提」という考え方です。これは、いわば、大乗仏教の究極を言い表した句として、「生死即涅槃」という句とともに、用いられることが多いです。さて、仏教の用語が4つ出てきました。煩悩については上記で触れましたので、その他3つについて少し説明したいと思います。菩提というのは一言で言えば、仏のさとりを指します。涅槃というのも同じく仏のさとりを指す用語です。また、生死は「しょうじ」と読みます。おそらく一般的に生死と書いた場合「せいし」と読むことも多いと思います。「せいし」と呼んだ場合は生きると死ぬということとなるでしょうが、「しょうじ」と読んだ場合には、生き死にを指す場合もありますが、用語としては主に生まれて死ぬことを指していると思います。仏教では我々衆生は生まれて死ぬことを繰り返していると考えます。これを輪廻と言います。衆生が悟りを得て仏の境地に達するまでは、この輪廻つまり生まれて死ぬことを繰り返していることになりますから、生死(しょうじ)というのは、いまだ迷いの世界で苦しんでいる状態を指すのです。

つまり、「煩悩即菩提」というのは、さとりをさまたげる煩悩ではあるが、それがそのまま仏のさとりを得るための縁となることを言っているのです。「生死即涅槃」も迷える衆生の世界がそのまま仏のさとりの世界であるということですから、同じような意味になります。

とは言っても、煩悩つまり欲深かったり、むやみに怒ったりすることは、そのまま菩提だから大いに行って良いということではありません。我々が苦しみを感じるのは煩悩があるからなわけですが、その煩悩から生まれた苦しみから脱したいと思うからこそ菩提を得たいと思う心も起こるのですし、もっと言えば、煩悩も含めてこの世界に起こる事象全ての本体は不変の真実真如であるからこのように言うのです。

我々のような一般人が煩悩を滅するために修行をする必要はないでしょうが、あまりにも強い煩悩はやはり、我々を苦しめます。ですから、煩悩との上手な付き合い方を模索できるのが良さそうです。子供にも、強い煩悩は自分を苦しめるということを教えてあげたいのにな、といつも思いますが、正直、中々うまくいきません。むしろ、人より欲深いようにさえ見受けられます。これについて、何度説明しても、欲が自分を苦しめるということを理解するのは難しいようです。おそらく、自分への自信が悪い方向に働いている可能性が考えられます。特に長女は、どんなにダメだと言われても、ごり押しすれば、もしかしたら欲求が通るかもしれないという態度がひどく表に出ています。これをなんとかしたいのですが、本当に難しいと感じています。私にとっては今後の大きな課題です。

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