空海と密教

仏教的思考のための基礎知識

密教というのは、様々に派生した仏教の一形態です。インドにおいて、お釈迦様に始まる仏教は、様々な変遷を経て現在に至っています。お釈迦様の生きていた時代からお釈迦様がお亡くなりになって約100年ほどの期間は初期仏教や原始仏教などと呼ばれます(紀元前5~4世紀ごろ)。その後、お釈迦様の教えの解釈に見解の相違が生まれ分裂が起こることとなりました。その時から、さらに様々な部派が派生し、色々な方面からお釈迦様の教えを哲学的に分析していく時代に入ります。この辺りを部派仏教と呼んでいます。そして、紀元前後くらいから、大乗仏教と呼ばれる仏教が現れ、急激に広まります。大乗仏教の教えは革命的で、それまで、さとりを完成したブッダはお釈迦様一人でしたが、誰にでもブッダ(仏・如来)となれる可能性が見出されました。また、これまでの仏教が、自信のさとりを完成することに中心を置いていたことに加えて、他者の救済についても目が向けられるようになりました。そして、この大乗仏教も様々に発展し、一番最後に登場したのが、後期大乗仏教とも呼ばれる密教です。ですから、密教は大乗仏教の一番最後の形です。

なお、密教にも、その発達過程に3段階あると分類されていて、初期、中期、後期とされますが、日本で行われている密教というのは、基本的に中期密教に位置づけられる内容です。ちなみに、チベットでも密教が重んじられておりますが、こちらでは、初期から後期までの密教が行われています。ここでは、日本における密教と真言密教の大成者空海について触れます。

さて、密教は東密(真言宗)と台密(天台宗)の二つの流れが発展しました。真言宗では純粋に密教のみを行いますが、天台宗では『法華経』という大乗仏教のお経の教えを中心とする天台の教えと密教の一致を目指しました。そこで、二つの宗派の密教の考え方には、少なからず相違点が見られます。そんな違った二つの密教が、お互いに影響しあい、発展してきたのが日本密教です。

特にこのうち、真言密教の大成者が日本の僧侶である空海(七七四~八三五)です。空海は八〇四年に中国の唐に渡り、長安の青龍寺というお寺で恵果(七四六~八〇六)という方から密教の奥義を受け継ぎました。恵果さんはその当時の中国密教においてトップだった方です。この唐の時代に中国で発達していた密教が中期密教に相当する内容でしたので、日本の密教も中期密教に位置づけられるのです。しかし、中国では後に、この頃の密教は衰退してしまうので、今では、日本だけで行われていますね。

それでは、早速、空海さんのお話しをしたいと思います。私は、空海さんという人物が大好きです。大変、魅力的な方だと思っています。人によって感じ方はそれぞれだと思うのですが、道を切り開くバイタリティーにあふれていて、すごく、あこがれます。また、運が良いところも素敵です。持ってる男だなと思うととてもテンションが上がります。自分を信じて歩く姿も魅力的で、物事を肯定的にとらえることに長けています。こういう人に会いたいし、なりたいなと思わせてくれるのです。ひとまず、順を追ってお誕生から見てみましょう。

宝亀五年(七七五)六月十五日 讃岐国多度郡屏風が浦に空海誕生

幼い時のお名前は 真魚(まお)と言ったそうです。

延暦四年(七八五) 十二歳 讃岐の国学に進む。 

大変優秀な子供で、将来有望と期待されていたそうです。この頃に、国分寺に学んび、仏教に触れていた可能性も考えられます。

延暦七年(七八八)十五歳 母方の舅・阿刀大足(あとのおおたり)について、論語・孝経 ・史伝・文章等を学ぶ。 

阿刀大足は、当時の天皇であった桓武天皇の皇子の持講つまり家庭教師をしていた方です。偉い方が親戚におられたのですね。これはラッキーです。

延暦十年(七九)十八歳 大学に入学。   

晴れて当時の最高学問機関に入学したわけですが、二十歳過ぎには突然、退学してしまったと言われていますこの頃から仏教に完全に傾倒した空海さん。この後、しばらくは消息が良くわかりません。四国や高野山などで山林修行に励んでいたと言われ、そのような中で、『大日経』や『大日経疏』などを始めとした密教経典に触れたのではないかと考えられています。特に、どこかのお寺にお弟子さんに入るわけでもなく、形式にとらわれない、空海さん独自のやり方で、自分の仏教を極めようとしていたのかもしれません。

延暦一六年(七九七)二四歳 『聾瞽指帰』を著す。   

『聾瞽指帰』とは、儒教や道教に比べて仏教の素晴らしさを説いたものです。後に『三教指帰』と名前を改めています。儒教と道教と仏教を擬人化して、対談させるような小説形式の書物で、中々面白いです。このような中で、密教の奥義を求めて唐に渡ることを決意したのでしょう。

延暦二三年(八〇四)三一歳  東大寺戒壇院にて具足戒を受ける。入唐。    

入唐というのは、中国の唐に渡ったということです。この時まで空海さんは実は、正式に出家していなかったのです。自主的に修行をしていただけでした。この時代、勝手に僧侶をするのは私度僧と呼ばれ、法律違反でした。空海さんも法律に引っ掛かる手前だったかもしれません。ところが、この頃、唐に渡って密教を学びたいと心に決めた空海さんは、何としても遣唐使率いる遣唐船に乗り込まなくてはなりませんでした。そこで、おじさんの阿刀大足にお願いをしたところ、遣唐船に乗り込む留学生(るがくしょう)の中に、偶然にも、急に欠員が出たのです。そこで、急いで、国指定の正式な僧侶となることを決意し、東大寺でその資格をもらったということです。本来であれば、船には乗れなかったのかもしれなかった空海さん。やっぱり、持っている男です。こういうところが、さすがです!!               ちなみに、この時、日本天台宗の創始者、最澄さんも同時に唐へ出発しています。

唐では… 梵語つまりインドの言葉を修得し、密教の戒律である三昧耶戒を受けました。恵果さんから金剛界、胎蔵という両部として密教の二本柱となる教えを、しっかり伝授され。空海に密教を伝授した後、力尽きるように亡くなった恵果さんに、早く日本に帰国して、密教を広めろと言われたので…。 そうだ、日本に帰ろう!!となりました。本当は空海さんは20年、中国にいなければならない立場だったのですが、この時も本当にたまたま、日本から来ていた遣唐船に何だかんだとうまいことやって、乗りこむことに成功。というわけで・・・。

大同元年(八〇六)年 留学期間二十年の所を二年で帰国

本当は20年中国にいるはずの人が2年で帰ってきちゃったので、とりあえず、船が着いた九州の太宰府に留め置かれました。この時に唐から持ってきたものをリストにした書物を書きました。多分、当時それを見たのが、すでに帰国して、都の偉いお坊さんであった最澄さん。この人は太宰府に置いておいたらもったいないよ!!ってな感じになって、

大同4年(八〇九)七月に入洛…つまり、今日の都に帰ってきたということです。

この後は、特に、嵯峨天皇の時代になって、とても活躍しました。奈良の東大寺の一番偉い人にもなりました。雨乞いの儀式にも成功しました。今や、五重塔が京都の象徴とさえも言える東寺も与えてもらいました。高野山にも金剛峯寺を建てさせてもらいました。そして、

承和二年(八三五) 三月二一日 

六二歳でお亡くなりになりました。

空海さんは、奈良仏教の中心である東大寺の偉い人になり、東大寺に真言院という自分が唐から持って帰ってきた密教を行うための場所まで作ってしまいました。奈良時代までの仏教の象徴のようなその場所に新しい仏教を放り込んだのです。また、平安の都では、宮中にも真言院を建ててもらいました。そして、真言密教の教えを完成させました。もちろん、その後の真言宗でも密教の教えは様々に発展していきますが、基本的にベースは全て空海さんがそろえてくれているという印象です。この空海さんが体系づけた密教の教えが本当に面白いのです。我々の生活にも役立つ密教の教えは、このカテゴリー内でいくつかご紹介します。

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