六大そして四曼は物事の「体」と「相」、つまり、実在と現象の関係を哲学的、宗教的に説明したものでした。さらに、この「体」と「相」に対する「用」が三密ということになります。この「用」というのは「ゆう」と読みます。これは作用(さゆう)の用です。すなわち、仏の「作用」の世界を示すのが三密ということになります。ここに体・相・用の三大という大きな三本柱が形成され、密教理念の根本観念が明瞭となるわけなのです。
作用と言うのは、宇宙に起こる行為であるとか活動を指しています。六大を本体とし、四種曼荼羅として現れた姿形によって繰り広げられる活動を「身密・語(口)密・意密」の三密として捉えます。
さて、実は身・口・意という概念は決して密教だけに存在するものではありません。通仏教的にはこれを「三業」と呼びます。これは、我々の一切の行為活動を三種の方面より分析する考え方です。つまり、身体上の行為を「身業」、言語上の行為を「口業」、精神上の行為を「意業」として捉え、総称して三業として、全世界の一切の活動を悉く三業で把握するのです。これを密教的に理解したのが三密です。ですから、密教においては「三密=三業」なのです。
では、なぜ、三密と言うのでしょう。密教では、仏の三業はきわめて奥深く細やかなものであり、我々のような凡夫が容易に理解することはできないことを、如来から我々衆生にたいする秘密と捉えます。そこで、これを三密とするのです。
これを、仏の世界に約しますと、身密は宇宙の全体的活動、語密は宇宙間におけるあらゆる言語や音声上の活動、心密は宇宙間における一切の精神活動ということになるわけです。また、衆生にとってはどうでしょうか。密教においては、仏と衆生の体は同じく六大であり、本来的には異なるものではなく、衆生の体現する相も仏と同じく四曼で捉えることができます。つまり、仏と衆生のあいだに差別は無く、平等なのです。ですから、「用」においても同じく、仏と同じ三業の活動があるべきということになります。しかし、我々のような一般の衆生にとっては、それがいったい何を指しているのかということは、未だ全く不可解な謎に過ぎませんよね。「あなたの行動はそれがそのまま仏の行動と同じです。」なんて言われても、なんのこっちゃわからんというのが正直なところでしょう。だからこそ、凡夫にとっては三業の真実というのは秘密すなわち理解できないのです。この観点からこれを三密と呼ぶというわけです。
ちなみに、三密は宇宙における一切の活動だとなれば、「相大」として紹介した、四種曼荼羅のうちの羯磨曼荼羅との違いがわかりにくいかと思います。しかし、羯磨曼荼羅の場合は、他の大・三・法の三種の曼荼羅の相の上に起こる活動を曼荼羅として捉える考え方です。ですから、他の三種の曼荼羅と離れて論ずることはできない考え方ということになります。ところが、三密は四種曼荼羅からは離れた観点から、宇宙に起こる活動自体を一つの作用と見る考え方で、宇宙の起こる作用自体を分析する視点から論じられるものという点が違うのです。
また、密教の行者さん達にとって大変重要な修行方法が三密行です。これは、まさに三密の実践と言うことができるでしょう。
手に印を結び、口に真言を唱え、心を集中させ雑念を捨て去り、精神統一した状態にとどめるということを行います。これをそれぞれ、身密・語密・意密と捉えるのです。
これは、われわれのような凡夫の三業の活動を、仏陀の三密の作用に合わせることで、凡夫の生活自体を仏陀の生活とする修行です。これにより、凡夫の三業が三密として相応し一致したとき、凡夫の三密と仏の三密は互いに行き来し、混ざり合って互いのさまたげがない状態となって、仏と一体となる境地に到達すると考えられているのです。この状態を指して三密加持と言います。
しかも、この三密行には二段階あります。まず一段階が上記に示したように、手に印を結び、口に真言を唱え、心を精神統一した状態に保つという、ある一定の形式に頼ることで成立させる方法です。これを形があるという意味で「有相の三密」と呼んだりします。
これに対して、形式に頼らない自立的な方法を形がないので「無相の三密」などと呼びます。普段から、例えば、手を挙げたり足を動かしたりといった、身体的に行う全ての行動を身密と捉え、口を開いて発生した音はすべてが真言であり、語密であると考え、心を起こして何かを念じればことごとく素晴らしい瞑想が行えるから、これを意密とするというような方法です。これは、その人の一挙手一投足すべてが三密行の実践ということになるわけですから、先に示しました、有相の三密がしっかりと成就した後の境地に現れる体験的世界を指しています。
そして、無相の三密の境地に至って初めて凡夫の三業がそのまま仏の三密となり、衆生の三密は仏の三密と行き来し、この身このままで仏となるという即身成仏の境地を獲得することができるというのです。
無論、上記のような状態に至るのは、我々にはほとんど不可能かと存じます。よほど、修行を積まれた徳の高い方に訪れる特別な世界でしょう。しかし、我々の行動や言動もそして、相手の行動や言動も、はたまた、世界で起こる全ての活動が、そのまま宇宙の真実、仏の活動なのかもしれないと心のどこかに感じただけで、日々の生活は彩り豊かな世界に変化するように、私は感じるのです。
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