廊下に立たされた

仏教的思考

5月に行われた長女と次女が出演したダンスの発表会に、親子で訪ねてくれた長女の幼なじみがおりました。私は、お会いするのが1年ぶりで、大変成長したお友達の様子に感慨深い気持ちになりました。このお友達、以前、「袖触れ合うも多生の縁」という記事で話題にさせていただいたお友達Sちゃんなのですが、そこで、もう一つ、二人の小学校1年生の時のエピソードを思い出しました。

 小学校に入学して、数ヶ月、半袖を着ていましたから暑くなってきたころ、ちょうど今くらいだったのかもしれません。長女が、少し、興奮気味に帰宅した日がありました。

「ちょっと、お母さん、聞いて!聞いて!」

と、嬉しそうに話し出したのです。以前、「諸行無常で子育ての悩みをスルー」という記事で紹介したように、長女の小学校入学は波乱の幕開けでした。とにかく学童が合わなくて、どうしても行きたくない長女が何度も逃亡し行方不明になることを繰り返していたころです。そのような大変な思いの中でしたから、どんな、楽しいことがあったのかしらと私も少し嬉しくなって、

「何か、良いことがあったの?」 と聞きました。すると

「うん、今日、とっても面白いことがあったの。私、廊下に立たされたんやで!!」

・・・。「はっ?」 私は、天から地に落とされたような気分になりました。大体、今時、廊下に立たされるようなことがあるのでしょうか?私の時代の小学生だって、ほとんど廊下に立たされるような人は居なかったと思いますけど・・・。実に、言葉を失いました。しかも、なぜ、そのような恥ずかしい出来事をこんなに嬉しそうに話すのだこの子は? 全く意味がわかりません。

「それのどこが面白いのですか?」

とりあえず、それを確認するための質問をいたしました。

「だってさ、授業中なのに、教室にいなくて廊下にいるんやで! サザエさんのカツオ君みたい。ああ面白かった。」

と言うのです。なるほど、この人は廊下に立たされることが不名誉なことであることを理解していないのだなと分かりました。

「だいたい、どうして廊下に立たされたの?」

そう、廊下に立たされた理由を確認しなくては、すると、どうも、我が長女は小学1年生であるにもかかわらず、なんと、中間休み(少し長めの休み時間で校庭で遊ぶことが可能な時間)明けの授業に毎日遅刻して入室していたようなのです。毎日、遅れる。しかも遅れているのに全く悪びれる様子もない。毎日注意しているのに、一切直らない。そのような状況に先生もとうとう堪忍袋の尾が切れたのでしょう。私もつい、

「あのね。それは、先生が毎日遅れて入っていることに怒って、もう教室には入れませんって言われて廊下に立たされたわけでしょ。そんな恥ずかしいことないんやで、なんでそんなに嬉しそうなの?普通は、恥ずかしくて、泣いてもうしません許してくださいって先生に謝るところやで。頭おかしいちゃう?」

的な説教をした覚えがあります。すると、

「そうか、だからSちゃんは泣いてたのか!」

と、急に合点がいったように納得したのです。

どういうことでしょうか?長女の友人のSちゃんは廊下に立たされるようなことをするタイプの子ではありません。良く、聞きますと、なんとその日はたまたまSちゃんが、我が長女を待っていて一緒に授業に遅れてしまったらしいのです。その日の中間休み、泥団子作りに夢中になっていた長女に、教室へ戻らなくてはならない時間だよと教えに来てくれたSちゃん。さあ、帰ろうとなっても泥だらけの手を洗うため、中々戻れない長女。長女はSちゃんに「先に帰ってて良いで!」と言ったものの、心優しいSちゃんは長女を置いて先に帰れない。さらに、先生も、我が長女に教室への入室を断った以上、Sちゃんを中に入れるわけにはいかなかったのでしょう。なんとも不運なことに長女の失態に巻き込まれたSちゃんは、恥ずかしくて悲しくて泣いてしまったのです。ところが、1番反省すべきわが長女ときましたら、

「これが、俗に言う廊下に立たされるというやつか。」

と珍しい出来事に大興奮。反省するどころか、喜んでいるのですから、全く、ズレた感覚にもほどがあります。しかも、Sちゃんに「なんで、泣いてるの?」と聞いたらしいのですから、何とも、言いようがありません。巻き込まれて泣いてしまったSちゃんには、本当に申し訳ない。それでも仲良くし続けてくれる彼女は実に有り難い存在です。その後、主人が帰宅したので、あまりに腹が立って、つい、言いつけてしまったのですが、すると、主人が、

「こらぁ! 何、廊下に立たされとんじゃ!」

と播州弁でキレまくったものですから(主人は姫路出身)、長女も少し焦ったのか

「私、廊下に立たされてへんで!」

と急な発言変更、そこで、私が

「さっき、廊下に立たされたと言ったやないの!」

と問いただすと、

「私は、廊下に立たされたんやない、先生にそこに居りなさいといわれただけや!」

と言うのです。

「それは、どこで言われたの?」

と聞きかえしますと、

「廊下」と答えました。

・・・。 「それを、廊下に立たされたと言うんやないかい!」

と再び、主人も怒り出しまして、まあ、よくも、あー言えばこう言う奴だと最終的にはむしろ感心してしまいました。あまりに面白かったので、もう、7年ほど前の出来事なのに、鮮明に覚えています。

 しかし、この「廊下に立たされた」という一件、片方は悲しくて泣いているのに、片方はそれを楽しんでいる。同じ経験をしているはずなのに、全く違う反応です。以前、こちらのブログで一水四見ということを紹介いたしましたが、まさにそれです。同じ経験も立場や気質の違いで全く違った見方となるわけです。

また、教育の現場というのは、このような全く違う性質の人間を同じ方向に導かなくてはいけない場面が多々あるでしょうから本当に大変だなと思います。以前、お釈迦様の教育法である「対機説法」の考え方が子育てには重要だと思う、というお話しをしたのですが、教育の現場では、必ず「対機説法」が必要となります。上記のような例では、我長女とSちゃんに同じ対応をしても、受け取る側の資質が全く違うので、どちらか一方には逆効果になったりするわけですね。おそらく、廊下に立たされたこと自体はうちの長女にはただのアトラクションであり、一切響かなかったのです。

 ただ、全く効果がなかったというわけでもありません。というのも、私がSちゃんがなぜ泣いていたのかを説明し、長女に巻き込まれた気の毒なSちゃんについて、

「Sちゃんが本当にかわいそう。あなたのせいで、すごく恥ずかしい思いをしただろうね。」

と言いましたら、これが長女にはこたえたようだったのです。廊下に立たされたこと自体は楽しかったけど、自分以外の人にとってはとても恥ずかしいと思う場合のある出来事であり、自分のせいで大好きなSちゃんに悲しい思いをさせてしまった。ハチャメチャですが、仁義に厚いところのある長女。Sちゃんに悪いことをしてしまったと、少し困った様子でした。少し、ですが・・・。

そうそう、しかも、このことを思い出しまして、長女に懐かしいねえと話して聞かせたのですが、すると、なんと、長女は小学校で廊下に立たされたことは1回でなかったと言うのです。ところが、1回目に上記のように報告しましたところ、怒られたので、その際に報告するのは見送っていたとのこと。 全く、今後も気の抜けない、現在中学2年生です。

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