我が長女は実に面白い人間でして、どのような対象に対しても壁がないというか。相手がマイノリティー(少数派)であろうが、マジョリティー(多数派)であろうが全く態度を変えない一面があります。得に、我々がつい抱きがちなマイノリティーへの差別意識というものはほとんどないように見えます。
さて、我が家のご近所に目の不自由な方がお住まいで、時々見かけるのですが、私は特に認識をしておらず、もちろんお話ししたこともありませんでした。ところが、ある時、私が近所を歩いておりますと、向こうから長女が帰ってくるのです。そして、たまたま、その目の不自由な方とすれ違いました。すると長女が「こんにちは?家に帰るんですか?」などと話しかけたのです。私はそれを見て、正直、ビックリいたしまして…。ところがその方も、どうも長女のことを知っているようで、「家に帰るのではないから大丈夫だよ。」というようなことをおっしゃって何事もなかったかのようにお互い反対の方向に歩いていったのです。
不思議に思って長女に近寄り、「あの人知ってるの?」と聞くと、「うん。時々、この辺を歩いているから、家まで送ってあげるねん。」と言うのです。良く聞いてみると、例えば、学校の行事で出会ったとか、地域の運動会で仲良くなったとか、そういうことなら少し理解もできるのですが、そういうわけでもないのだそうで、まだ、低学年であった頃に、何となく困っているように見えたので、「どうしたの?」と声をかけたことがあって以来、急いている時以外は、その方を見かけると声をかけるようになったのだそうです。老若男女を問わず、誰とでも仲良くなるたちであることは知っておりましたが、まさか、目の不自由な方にも声をかけていたとは気づきませんでした。
「何で、声をかけようと思ったの?目が不自由だから?」と聞きますと、「困っている人を助けるのは当たり前やで、お母さん。」的なことを言われてしまいました。そして、私も、はっといたしました。つまり、目が不自由であることに興味をもって話しかけたわけでもなく、ただ単に、困っている人が目が不自由であったというだけのことのようなのです。
「なんで、家まで送ってあげるの?」と聞くと「目の見えない人は、音とかで色々わかるけど、それでもやっぱり危ないと思うねん。だから、暇なときは送るねん。」みたいなことを言うわけです。その話しぶりは、決して、目が不自由ということを特別視していないと言いますか、例えば、小さい子だから送ってあげるとか、女の子だから送ってあげるというような程度の感覚で話しをしているようでした。
そういえば、長女の通う小学校にはなかよし学級というクラスがあります。少し、発達障害などを抱えるお子様が所属するクラスです。長女は、このクラスに、しばしば訪れ、良く遊んでいるという話しを聞きます。これについては、学校の先生も、非常に感心していて、「本当に上手に遊んでくれるんですよ。」とほめられたことがあったことを思い出しました。しかし、本人は、なかよし学級のお友達も、クラスのお友達も、特に区別している様子はなく、ただ楽しいから遊びに行っているだけという感じで、ほめられたところで、悪い気はしないようでしたが、ピンと来てないような感じもするのです。
普段は、非常に無礼で、手に負えない破天荒キャラの彼女ですが、こういうところは、私も見習わなくてはならないなと思うのです。そして、そんな長女を見ていると、ある意味、真実の平等観を持ち合わせている人間だなと思うのです。これは、恐らく天性の才能ですから、真似しようにも真似できないのですが、目の不自由な方に自然に話しかける長女に、驚いてしまった自分が情けなく思えました。なんだか、私の方が小さな人間のように感じてきたのです。確かに、「困っている人を助けるのは当たり前やで!」なわけですが、私なら、もう少し色々な要素を見てしまって、多分、そんなに気軽にお声がけはできないんじゃないかなと思うのです。
ここで、真実の平等とは一体、どのようなものであるのか、改めて考えさせられたように感じました。というのも、平等というのはもともと仏教用語だからです。仏教で言うところの平等というのは我々の視点というより、仏側の視点を言います。私たちは、様々な縁で成り立っていることから、その縁によって、それぞれ違った姿をしていますから、自分とその他は違うものだと思ってしまいます。ところが、真実の視点すなわち仏の目で見れば、すべては全く平等だというのです。この平等とは、真理やさとり自体を指す用語でもあります。真理真実というのは、どのような姿であろうが、関係なく全てのものに行きわたっているのです。だから平等なんです。そしてこの真実を完全に理解しておられるのが仏なのです。また、これは、宗派によって考え方の違いはありますが、我々衆生は誰しも平等に仏に成りうる可能性を持っているという点での平等もあります。もしくは、浄土教で言えば、阿弥陀如来の慈悲は全てに平等に降り注いているという観点もあります。
こうなりますと、他人と自分を比べてどうのこうのと気を揉んだりすることが、いかに無意味な行動であるかということに気づきますね。だって、そもそも、みんな平等なんですからね。
ところが、この「人と比べてしまう」というのは、慢という煩悩なわけですが、これが、かなりさとりに近づいた段階でも中々消えない煩悩だと言われています。どうも、人は誰かと自分を比べたがる生き物のようです。ただ、真実的には平等であることを知って、他人と比べているのと、それを知らずに比べているのでは随分と違いますから、真実は平等であることを知っていることは大切であろうと思います。人生において、人と比べて良い場合もないわけではありません。自分が劣っていることに気づき、なにくそ!とやる気を出し、精進することは決して悪いことではないと思います。しかし、無駄に嫉妬したり、おごり高ぶったり、自分を卑下するようでは良くありません。そういう自分に気づいたら、「そうだ、真実的には平等なのに、意味のないことやってるな。」と思い出すだけで、随分楽になるように思います。
ところで、我が長女なのですが、自分自身の欲は人一倍激しい、いわゆる強欲ものですし、頭に血が上りやすいタイプで、すぐに暴言を吐きますから、一見、煩悩の塊のようです。しかし、良く考えてみると、他人と自分を比べてどうのこうのと言うことは、確かに少ない気がします。それで言うなれば、長女に比べて穏やかに見える次女ですが、次女の方が、「お友達と同じ服が欲しい」とか、「私はお姉ちゃんよりも賢いから」とか比較する思考に立脚した発言は、断然多いように感じます。でも、多分、次女の方が普通なのではないでしょうか。
長女は人のことは基本的にどうでも良いようです。ですから、いかに自分が人より漢字テストができなかろうが、ダンスが上手とほめられようが、そんなことはどうでも良いらしいのです。単に、漢字は嫌いだからやらない、ダンスは好きだからやりたい、だけなのです。
そう考えますと、うちの長女って、実は、修行を積んでみたら、意外と早めにさとりに至れるタイプなのではないか?なんて思ってしまったり。だって、確かに怒りや欲は人一倍激しいですが、それらは慢に比べますと、意外と早めに取り除ける煩悩のようですから、一番、手ごわい慢が生まれつき薄いというのは、実にうらやましいことです。
というわけで、目が不自由な方だから助けてあげなくてはならない、ということではなく、長女の「困っている人を助けてあげるのは当たり前やで」こそが、真実の平等なのかもしれないなと反省したというお話しでした。子供は結構、色々なことを教えてくれますよね。親と言うのは実に役得です。
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