自分のことが好きな人に~自分を大切にするためのセオリー~

仏教の役立て方

先日、長女が中学生のお姉ちゃんと話したことを聞かせてくれました。いつも、仲良くして頂いているダンススクールの先輩です。そのお姉ちゃんは「あまり自分のことが好きではない。」と言っていたそうです。私も知っている子ですが、とてもかわいくて、明るくて、おしゃれで、しっかりした子です。長女も、そのお姉ちゃんが大好きです。ですから、それを聞いた長女はすごく不思議に思ったのだそうで、「私は、自分のこと好きだよ。」と答えると、「いいなあ。」と羨ましがられたのだそうです。相手は中学生、長女は小学生、4歳年上ですから、色々と周りを取り巻く状況も違うでしょうし、年齢的にもいろいろと悩む時期に入ってきているでしょう。今後、長女も「自分を好きじゃない。」と思うことがあるかもしれません。ですから、一概に論じることができないということは承知しています。ただし、今の様子を見ている限り、我が家の娘たちは基本的に自分を大切にするタイプであろうと感じています。

無論、むやみに自分中心の思考で立ち振る舞うのは、世間への迷惑にすぎません。しかし、自分が嫌いで大切にできないのでは幸せではありません。私自身も、自分自身が嫌いで仕方ない時期というのがありましたので、良く気持ちはわかります。思い返せば、私自身も自分は仏教で生きていこうと心に決めるまでは、本質的には自分を好きになれなかったような気がします。そこで、娘たちには、生まれた時から仏教で生きていけるように素地を作ってあげたいと思っているのです。もちろん、最終的にどのように生きていくか決めるのは本人ですが、仏教で生きていきたいと思ったときに苦労せず、すんなりと実行できるようにしてあげたいということです。

仏教で生きていくと言われても、意味がわからないかもしれません。私は、自分が生きていく上で、迷ったり、困ったりした時には、一旦、仏教に立ち返り、仏教の考え方を参考に思考を組み立てなおすようにしています。そうしますと、おのずと解決することが多いのです。これを、仏教で生きていくと言っています。つまり、仏教の考え方に基づいて生活を送るということです。これは、何も、出家をするということではありません。一般的な生活を仏教の考え方を参考に進めていくというだけのことです。しかも、そう、難しく考える必要もありません。例えば、大事なものをなくしたとします。一旦はすごく焦って、混乱するわけです。しかし、混乱していても何もはじまりません。そこで、「諸行無常だ、仕方ない。」と心を落ち着け、では、どうすべきかを考える。まずは、こんな感じで良いのです。

ところが、私が仏教で生きていくのは自分自身で決めたことですから、良いわけです。しかし、娘たちにそれを自然に実行できる素地を作るというのは、どのようにすればよいだろうかと試行錯誤の日々です。たとえば、子供が「お母さんって、なんでそんなに私のことが好きなの?」と聞いてきたことがあります。そういう時は単に私の子供だからと答えず、「あなたは、お母さんが仏様からもらった子だから、仏様の子なんだよ。」「だから、お母さんは絶対にあなたを大切にするし、守るんだよ。」と言いました。もちろん、母親ですから、子供を大切に守ろうと思うことは当たり前の感情です。そこに、仏様への尊敬の念と、あなたは仏様と同じくらい尊い存在なのだという感覚を付け加えているつもりです。

これが、意外と面白い効果を生むのです。未だ、良いか悪いかわかりませんが、長女と次女を見ておりますと、性格は正反対ですが、二人とも謎の自信が心の底から湧いてくるタイプなのです。私の勘違いかもしれませんが、これは、仏様への信頼感と、自分は尊い存在であるという自尊心の現れではないかと思ったり致します。

ちなみに、「あなたは仏様」という思考、これは、私が勝手に創作した考え方というわけではありません。仏教の思想の中に確固たるよりどころがあります。

まず一つは「仏性」という考え方です。これは、歴史上のお釈迦様の思想というより、その後の大乗仏教において登場する考え方です。衆生つまり我々のような一般的な存在は皆、仏としての本質を有しているという考え方です。もう少しわかりやすく言いますと、私たちは、全員、心の中に仏の種が埋まっているというような感じでしょうか。すなわち、これを持ち合わせていることで、誰もが悟りを得て仏となることのできる可能性を秘めているということになります。

もう少し踏み込みまして、密教の思想にも面白い考え方があります。それが、六大という考え方です。実は私の専門は密教でして、語りだしたらキリがないのですが、手短にわかりやすく説明します。まず、密教で最も重要な仏様が大日如来です。この大日如来はこの宇宙そのものであります。そして六大というのは地・水・火・風・空・識という、全宇宙を構成している六つの要素であり、宇宙の本質そのものを指します。我々を含む全宇宙は全て、六大によって成り立っていると考えるわけです。そして、その宇宙そのもの、これこそが大日如来です。少し、頭が混乱してきましたでしょうか?つまり、大日如来の本質も地・水・火・風・空・識の六大ですし、我々衆生や全宇宙に存在する全てのものの本質も六大です。さすれば、我々は宇宙の構成要因なのですから、大日如来の構成要因でもあるわけですし、同じ六大から成り立っているのですから、本質的には我々も如来も同じであると言えます。私は、授業では学生にわかりやすいように「あなたも私も大日如来ということです。」と言ったりします。つまり、我が子ももちろん大日如来なのです。(もう少し詳しく知りたい方は、こちらをお読みください。「六大体大論」「空海の三大説」)

以上のような理由から、「あなたは仏様の子なのだから」という言葉が導き出されるわけです。

さて、先日、長女が5年生最後の通知表を持って帰って参りました。相変わらず成績は大変悪かったわけですが、3学期の総評の欄は以下のような言葉で始まっていました。

「他の人達と違った考えでも、堂々と発言できるというのは、大変すばらしいことだと思います」

思わず、爆笑・・・。確かに、他の人達と意見が違った場合、変わった人だと思われたらどうしようとか、あとで、みんなに馬鹿にされたらどうしようとか、そんな風に思って、発言を躊躇してしまう子供は多いのでしょうね。ところが、そういった態度がまるで見受けられない。人と違おうが、何しようが、自分が考えて正しいと思ったことは自信を持って発言する。これが、彼女の真骨頂です。つまり、意識しないところで埋め込まれた、仏教を背景とする自分を大切にする気持ちが、謎の自信を生み出しているように見えるのです。以前の記事に書いた、仏様への信頼も関係しているかもしれません。

仏教には大変面白い側面があります。それは、時を重ね歴史をかたどりながら、その思想が多種多様に発展し、様々な考え方を生み出してきたことです。歴史上の釈迦にはじまり、気づけば、宇宙そのものが大日如来として現れる。それでも、どれも仏教なのです。私の、仏教で生きるというのは、宗派などにとらわれず、その時々に適した考え方を参照することに意味を見出しています。(私は、研究的専門分野が密教で、宗旨が浄土宗ですので、多少はこれらに偏ることもございますが・・・。)

ですから、子育てにかかわらず人生の様々な局面で誰にでも、仏教が役に立つ瞬間があるように感じるのです。

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