正しい見方

仏教的思考

つい、先日のことです。私は、普段すこぶる健康で、元気だけが取り柄なわけですが、急にひどい腹痛に襲われました。晩ご飯が終わった頃でしたので、食器を片付けなくてはと思っていたのですが、もう、それどころではありません。冷や汗が止まらず、何度も何度もトイレに行き、最後には出て行かれなくなる始末。最後には血が出てまいりまして驚きました。おかげで、お医者様に今度検査に行きなさいと言われました。これは、本題とは関係ないので、それは、さておき、その時のことです。

次女が「お母さん大丈夫?大変だから、何かお手伝いするよ。」と言うのです。次女はとても優しいのです。長女は自分の好きなこと以外は「やりなさい」と言わないとやらない傾向にあります。しかもすごく面倒くさそうです。しかし、次女は普段から良くお手伝いをしてくれます。そして、「お母さんは赤ちゃんがいて大変だから、私がお手伝いしなけりゃ!」と良く言います。本論から外れますが、この語尾の「けりゃ!」がめちゃくちゃかわいいのです。というわけで、いつも通り優しい子だなと思いつつ「ごめんやけど、今日はお母さんしてあげられないから、自分で歯磨いて寝てくれる?それがお手伝いだよ。」と言うと、「わかった!」と素直に聞いてくれました。三女は主人が布団に連れて行きました。ところが、長女は何をしていたか良くわかりませんでした。それでも、構っていられるような状態ではありませんでした。

どのくらい時間がたったでしょうか。多分1時間とか1時間半くらいだったと思うのですが、やっと少し体調が治まってきて、周りの様子が見えてきました。すると、全く完ぺきとは言えませんが、テーブルの上がなんとなく片付いていたのです。

あれ? と思いました。次女は私の言うことを聞いて、早々に就寝したはずだし、三女を抱いて部屋を出ていく主人の姿も記憶にあります。その時点ではテーブルの上の食器は片付いてなかったはずです。ということは、「長女かな?珍しいな。」と思いましたが、すでに長女もその場にはいませんでした。先ほども言いましたが、長女は基本的に自分の好きなこと以外、言わなければやりません。私の彼女への忠告のお決まり文句も「いつも、自分のことしか考えていない」「自分の欲求、主張ばかりで、周りの人のことは一つも考えない」などといったものが多数をしめます。

次の日、「もしかして、片付けてくれたの?」と聞くと、何の気なしに「うん。」とだけ答えたのです。「ありがとう」と言ったのですが、また「うん。」とだけ。その時、はっとしました。私の見方は辺見だと思ったからです。

偏見ではありません辺見です。とは言え、意味はほぼ同じで「偏った見方」ということです。辺見というのは元々、仏教で五見とか五悪見とか言われる5つの間違った見方の一つに数えられています。そもそもは、人は死んでしまえば全く無になると考える見方(これは断見と言います)と人は死んでも霊魂のようなものは永遠だと考える見方(これは常見と言います)という、二つの偏った見解を指しています。仏教は中道の哲学ですから、こういう、極端な偏った見解は間違った見方だとするのですね。お釈迦様はこういうことは考えても修行には何ら役に立たないと判断したのです。辺ですから、片側に寄っているということですよね。片方の辺に寄っている見方は間違いなのです。

で、私は、我が三姉妹に辺見を起こしているなと思ったのです。長女はおそらく、私が苦しんでいるのを見て、何も考えずに食器を片付けたのでしょう。だから、特別な顔もせず、珍しく自分の主張もせず、「うん。」とだけ答えたのです。むしろ、次女は「どうしたら良い?お手伝いするよ?」と進んで声をかけてきたのです。その時は、次女はやっぱり優しいなと思ったのですが、良く考えてみれば、恩着せがましいという捉え方もできます。つまり、私自身が、両方を偏った見方で見ているということは明白です。

思えば、いつでも、何かトラブルがあれば、まずは、長女を疑うのが習慣化しているように思います。そのせいでしょうか、私が、次女に注意をしていても、長女は自分が言われていると勘違いすることが多いのです。「何のこと?私、何もしてへんよ?」などと言って私の話しの腰を折るので、「あんたのことちゃうわ。全部自分のことだと思うな。自意識過剰や。」・・・。と何もしていないのに怒れらてしまう長女。しかし、良く考えれば、これは私の辺見が生んだ産物なのかもしれません。これではいけません。

さて、では、どうすればよいのでしょうか。上記のようなことは少なからず誰にでもあることでしょう。そこで、改めて考えてみました。悪見すなわち間違った見方の反対が、正しい見方と言えるでしょう。仏教では正見(しょうけん)と言って、八正道という悟りに至るための8つの実践のうちの筆頭に数えられています。これが何なのかを一言で言うと、「ありのままをありのままに見る」ということかと思います。たとえば、人は常に同じ状態が続くと思いがちですが、諸行無常でありますから、刻一刻と状況は変化します。この無常をありのままに捉えるというようなことです。

哲学的に考えると難しくなりますが、さっきの話しに戻して考えますと、我が家の場合、「長女はいつも悪い」と思いがちですが、これは悪いという片方に偏った辺見であり、間違った見方なのかもしれないと思ったのです。もしかして「長女はいつも素直に自分を表現している」というのが実態なのではないかと思ったということです。無論、諸行無常ですから、刻一刻と変化するわけですが、変化する状況の中でいつでも素直に自分の思うまま行動しているというのが長女なのかもしれないと思ったのです。

通常は、「お手伝いは面倒だからやらない。怒られたって面倒なことを進んでする道理はない。」という自分の気持ちをそのまま表現している彼女ですが、私が苦しんでいるのを見た先日は「お母さんがしんどそうだから、やってあげた方が良かろう。」という気持ちが起こり、それを素直に実行しただけだったのでしょう。それを辺見を起こしている私が、珍しいと感じただけで、本人にとっては、至極あたりまえ、自然の行動だったということかもしれない。だから、褒められてもピンとこないのか? などと正見を探って、色々考えを巡らせてみました。中々、面白い哲学的時間でありました。とにかく、子供たちのありのままの姿を一旦、そのまま受け止められるように頑張ってみようと思ったのです。

結局、実際の正見がどこにあるのかはわからないのですが、おそらく、それでよいのです。まず、とりあえずは、辺見に陥ることを回避すべしと改めて感じた出来事でした。

…と言っても、ついつい…。と言ったところが現状ですが…。

コメント

タイトルとURLをコピーしました