秋はもみじの永観堂~秋の寺宝展を開催します~

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さて、今年も感染症対策をしながら、秋の寺宝展が開催されます。本年は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送中であることで、にわかに注目を浴びている源平争乱の時代、そんな時代の立役者達と当時の禅林寺をテーマに展示を行います。実は、乱世の影で、一人の平家出身者が禅林寺の住持となったことをご存じでしょうか。それが禅林寺第十二世静遍僧都(1165~1223/1166~1224)です。静遍僧都の父親は平清盛の異母兄弟であった平頼盛で、頼盛の母親は源頼朝の命を救ったとされる池禅尼でありました。池禅尼による頼朝助命の物語は『平治物語』の中でドラマチックに語られています。

 平治元年(1159)12月、平治の乱が起こり、平清盛が頼朝の父源義朝を破りました。義朝は、嫡男であった頼朝達を連れて都を離れ、東国にて再起の機会をうかがっていましたが、翌年1月、尾張国で殺害されます。一方、義朝一行とはぐれてしまった頼朝は、2月に静遍僧都の父となる平頼盛の家人であった平宗清に捕えられます。そして、清盛のいる京都・六波羅へ連行されたのです。時に頼朝13歳。敵方源氏の嫡男ですから、当然、清盛は処刑の方向で進めようとしていました。すると、年若い頼朝を不憫に思った宗清が池禅尼に相談をもちかけるのです。というのも、池禅尼には、頼盛の他に、その兄であった家盛という子がおり、彼を若くして亡くした過去がありました。なんと、頼朝は幼き日の家盛の生き写しだったと言います。宗清に頼朝が亡くなった家盛に似ていると聞かされた池禅尼は、頼朝の命を助けてあげて欲しいと、平重盛(清盛の嫡男)を通じて清盛に頼みました。清盛にとって池禅尼は継母ですが、幅広い人脈で父・平忠盛を支えた人物で、清盛も一目置き大切に扱っていたと言います。そんな池禅尼の頼みですから、叶えたい気持ちは山々ながら、源氏の嫡子を生かしておく訳にはいかないと拒否する清盛。ところが、どうしても頼朝を助けたい池禅尼が、何度も何度も食い下がります。頼朝の処刑はそのたびに延期、延期と伸ばされ、さすがの清盛もとうとう折れて、頼朝の処分は伊豆への流罪となりました。

 さて、池禅尼のおかげで命拾いをした頼朝は、生涯その恩を忘れなかったと言います。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家ですが、池禅尼の実子であった頼盛はその後も生き残り厚遇されました。そして、頼朝は頼盛の子である静遍僧都にも帰依し、禅林寺に『大般若経』と「釈迦十六善神像」を寄進して大般若転読会を開始させたと伝わります。そこで、本年の寺宝展では、源平の争乱時期の禅林寺について、初公開資料三点を含め、静遍僧都と源頼朝の関係性を中心に紹介いたします。

 あの時、清盛が頼朝の命を救う選択をしていなければ、一体、どうなっていたのでしょう。当然、現在、大河ドラマで扱われている『吾妻鏡』のような歴史物語は存在しなかったでしょう。池禅尼の慈悲と清盛の判断、その後の頼朝。何とも、深く考えさせられるエピソードですね。

 さてここで、本年の寺宝展にて、展示を予定している作品の中から、10年ぶりに本山へお戻りになられることとなりました国宝・山越阿弥陀図(やまごしあみだず)をご紹介いたします。

 禅林寺の山越阿弥陀図は、緩やかな尾根の連なる山並みから、大海を背に転法輪印を結ぶ阿弥陀が上半身を現し、山を越えた手前側には、来迎雲に乗る観音・勢至の両菩薩、その下方に四天王と持幡童子が左右対称に描かれ、左上部には月輪上の阿字が配されます。やまと絵形式の山水景を背に各尊格が配置され、尊格構成や表現には、ほぼ他の類例が存在しない唯一無二の仏画として名高く、数ある山越阿弥陀の中でも、最古にして最も優れた遺品とさえ評価されています。また、修復の際、阿弥陀如来の白毫部分が丸く切り取られていたことがわかり、おそらく、白毫部分に水晶を嵌め、後方から火で照らして光らせるような演出がなされていたのではないかと考えられるのです。ところが、一体どのような目的や意図で、いつ頃制作されたのかということについては諸説あり、未だ、決着していないのが現状です。 

 中でも重要なのは、中野玄三氏が一九六〇年頃より繰り返し発表し、ほぼ定説的となった、浄土教と密教の融合的観点から作られたとする説です。これは、全体が曼陀羅的に配置されていることや、左上部の阿字に着目して、その思想的背景に浄土教を真言密教的に解釈し、両者の融合を図った覚鑁(1095~1143)を位置づけた上で、実際に山越阿弥陀図の制作に関与したのは、覚鑁の思想を受け継いでいたであろう、禅林寺第十二世静遍僧都であったと比定する考え方です。そして、この山越阿弥陀図が静遍僧都の臨終仏であったのではないかと推測しておられます。

ちなみに、制作時期については、概ね鎌倉時代、13世紀を中心としながら、1900年代までは、13世紀前半とされることが多かったように見受けられますが、2000年代に入って、一三世紀後半説も有力となってきました。このように、制作年代がズレて解釈されるようになると、静遍の臨終仏と考えることが難しくなってきます。そこで、様々な議論が再燃していますが、例えば、大﨑聡子氏による『禅林寺縁起』に着目し、嘉禎三年(1237)に禅林寺内に建立されたと言う聖衆来迎院で行われていた往生講の本尊だったのではないかとする説などは大変興味深い考察です。とはいえ、令和三年に発刊された『國華』第1511号「特輯・永観堂禅林寺」にて、泉武夫氏が構想自体は静遍僧都であったとしても、それを継承しながらさらに練り上げた作品と位置づけたことは、鎌倉時代の禅林寺における静遍僧都の影響がいかに強いと考えられているのかを物語っているとも言えましょう。

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