私の子供は仏様~仏性があるということ~

仏教的思考

さて、自分のことが好きな人にという記事を書いていて、この考え方のもう一つの側面を説明したいと思いました。それは、子供に腹が立つときの親の心の持ちようについてです。

子供に無償に腹が立つことはありませんか?お母さんやお父さんだって人間ですから、子供にあまりにもひどい振る舞いをされれば、子供にだって腹が立って当然です。お恥ずかしい話しですが、ほぼ毎日のように腹を立てているのが、この私です。下手をすれば、手を挙げてしまいそうになることも多々あります。しかし、怒りは仏教では煩悩の筆頭格、できれば早々に治めたいものです。そういう時、怒りを治めるために時々、あることを考えるようにしています。

それが、「私の子供は仏様なんだ」ということです。

もう少し専門的に言うと「人間は仏性の持ち主なんだ」ということです。

自分のことが好きな人に」の記事でも説明しておりますが、仏性とは衆生の有している仏としての本質のことです。もう少しわかりやすく言いますと、私たちは、全員、心の中に仏の種が埋まっているというようなことで、これを持ち合わせていることで、誰もが悟りを得て仏となることのできる可能性を秘めているということになります。

私が日常的に腹を立てる原因を作るのは圧倒的に長女です。彼女に関しては、生まれてこの方、反抗期と言った感じの娘で、1回で言うことを聞いた記憶がありません。「それはやめなさい」と言ったところで、すぐにやめたことは1度もないのです。常に、私の怒りが限界を超えそうになるまで、平気でやり続けます。やっと、やめたと思っても、あからさまに不本意そうな、無礼な態度をとるものですから、私は、毎日のように腹を立てなくてはならないわけです。父親も、「こんな失礼な娘は他に知らん」と同じくご立腹です。

傍から見れば、こんなに怒って大丈夫なの?と思うくらい父にも母にも怒られているはずなのですが、1分後にはケロッとしていて、どういう精神力の持ち主なのかと、我が娘ながら不思議で仕方ありません。怒られている最中は基本、不機嫌そうで、挑戦的な視線でにらみつけてきますから、その態度に対してさらに指摘を繰り返すことになります。そのような態度を改めないのでは、今回ばかりは許さないなどと突き放した言い方をしようものなら、こちらが許すと言うまで泣きわめき、のたうち回り、それを辞めなくては許さないと言っているのに、「だったら、どうしたらいいのよー」などと喚き散らすのです。そして、最終的に私は、手が付けられないというのはこういうことを言うのだなと、何も言う気が起きなくなるのです。落ち着いて話しができる時は、意外と思慮深いところがあり、目の付け所も独特で面白い子なのですが、何か間違ったスイッチが入ってしまうと、私にとっては、言葉の通じない宇宙人のような存在に感じることさえあります。

こういう時に、自分に再確認をするのです。「この子は仏様、仏様が私にとっての試練を体現してくれているのだ。」これが、私の怒りを次の日に持ち越さない工夫です。

そして、誰しも仏性の持ち主です。どの方の声も、行動も、仏が私に差し向けた現象です(この部分に関しては子供の起こす問題は如来のメッセージも参照ください)。ところが、常に他人に対してこのようなことを実感しながら生きるのは至難の技ですよね。少なくとも私は、今のところ、できません。しかし、せめて子供に対してだけはそう考えてみようかなと思ってみると、意外とそう見えてくることがあります。それができるのは、きっと心から愛しているからかもしれません。仏教では「愛」も煩悩の一つですから、実際には正しい解釈とはいかないとわかっていますが、私は仏様の種を育てているのだという思い込みは、私の自信につながります。

元来、私はどちらかと言うと怒りやすい性格かと思います。ところが、子供に対しては、母が怒ってばかりだとあまり良いことはありませんよね。そこで、怒りを抑えるための方法論というか、工夫と言いますが、そのための思考方法として、相手に仏性を見るということをやってみることがあるのです。少し特殊な方法ですが、怒りが治まらない時は、仏性でなくても何か尊いものを相手の中に見るというのが有効かもしれません。同じことを言われても、尊敬している人にだったら、不思議と腹が立たないことってありますからね。

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